「ヴェルサイユの宮廷庭師」には驚いた。生命のM&A(5)

あまり好きそうではない映画だなと思いながら、借りてみた。
やっぱ、あんまり好きでは無いと思っていたのだが、1時間30分位のところからのシークエンスで思わず涙が出てしまった。

ううかつであった。
「貴族の庭作りなどというお話」などに驚き、涙するとは思わなんだ。



ココまでは普通にベルサイユ物であった、つまり豪華絢爛な衣装に身に包んだ役者が演技をしていた。
つまり、大昔の絵巻物を見ているだけである。
何も面白くない。





ところが、主人公がハレム(正確には王宮での女性だけのサロン)に招き入れられる所で一転する。
沢山の女性たちが彼女の品定めをする。
ふとしたきっかけで、そこにいる女性たちが同じ様に傷を負っていることを話し始めるのである。
自分の子供がなくなった話、夫と父が戦場で死んだ話、見事な様式美の中で一人一人の苦しみが語られる。ナラティブな心の和解、許しである。
全く予想していなかった。
宮廷で平民の命を削りながら贅沢の限りを尽くす貴族の苦しみである。
そんな物なんだと言えるかもしれない。しかし、人としてて同じ苦しみがそこにはあるのだ。



丁度、1時間30分くらいのところである。



その後のステージで王と彼女は話す。
いい感じである。


面白かった。


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あの服装って意外とセックスしやすいのだろうなあ。

やっぱ最後はマイクロバイオームである。

==9/9==
もっとびっくりしたのは、「師匠」の人ってレッド・スパローの悪いおじさんじゃないの。

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セックスは子供を作るためにはあらず。
身体というコロニーを超えてマイクロバイオームが行き来するために、その個体を操るのである。
渡り移ろうとする他のコロニーを愛し、破壊し、交流する。
花を愛でる蝶は受粉を手伝い、他の花を愛でる物たちとの間で愛を交わす。
あたかも、次々とパートナーを変えセックスする輪舞曲のごときだ。


乱交を好むのはマイクロバイオームにとって一気に多彩なコロニーに行き来できるからだ。
差しつ差されつの乳繰り合いである。
気持ち良いのには訳がある(したことはないが)。


そして、「感染症と言う生への可能性(コロニーにとっては凄惨な死)」を恐れる「長期の記憶」は「家族」と言う「欲望を閉じ込める小さな檻」を作り果てしない生への望みを諦めることを教えた。


マイクロバイオームは、コロニーを操り変化していく環境に巧みに適応していく。
高温多湿の環境に最適な「恐竜」はやがて来る氷河期に適応するために「哺乳類」というコロニーへと変わった。

「進化」などという幼稚な「俺様概念」など哀れなものである。
どのような個体も、種も、個個の生も、皆同じ様に意味がなく、同じ様に重要である。
棲み分けと進化を統一的な視点から論じた、今西錦司先生は偉大だ。




僕はガイアという概念が好きではない。
なかなかいいことを行っているように思えるが、「エデンの園」を求めても過酷な宇宙にとってそれは意味がない。
地球という美しい緑の惑星は、小さな「宇宙の小石」にしか過ぎない。


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自分というコロニーに入ってきた「細菌やウイルス=マイクロバイオーム」はときにコロニーを破壊するであろう。
私達はそれを「死」と呼び、忌み嫌うであろうが、世界にとってはあまりに当たり前である。

種も超えて私達はセックスをして、より適したコロニーの形を求める。

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なぜ、犬は私たちの足にまとわり、マウンティングしてセックスを試す。
「ホラホラ間違えなさんな」などと引き離そうとするが、犬にとっては間違えるも何も、ない。


したいからするし、否応なくする。抗えない力がコロニを操っている。

私達も同じである。二人きりになればマイクロバイオームは操り他のコロニーに移ろうとする。不倫となじられ石で打たれ死ぬかもしれないが、そんなことはかまっちゃいられないのだ。
したいからするのだ、犬にとっても、ヒトにとっても、種などというものは関係ない。
交尾して仔が生まれるなどということを「マイクロバイオーム」は知りはしない。


リンネさんは「分類学」という「神を中心に据えた静的な世界」を描いた。
もうそろそろ打ち捨ててもいい。