父と暮らす:欲望はどこに有るのだろうか?

父と暮らしていると学ぶことが多い。
自分が30年後に生きていたらどんな風に振る舞えばいいかよく分かる。

実際この学びというものは共に暮らしている経験を通じて感じることだ。
食事の用意をする、一緒に食事をする、風呂に入れる、洗濯をする、掃除をする、話をする、怒る、泣く、笑う........


色々と介護の書物があり、書評を読む。
買ってみたいと思う本は少ない。
というか、沢山買ったのでおおよそ書いてあることは分かる。



しかし、殆どの本で抜けているのが自分はどんな年寄になるのかという視点だ。
そして加害者としての自分の痛みだ。

多くの場合、手間がかかる、自分の自由が無くなる、介護施設バンザイと言う論調である。

僕は、父が自分でトイレに行けて、自分で食べることが出来て、僕が誰だかわかっている間は「父」だと思って接する。


親子というのは、戸籍上の問題ではない。
自分にとってどうしても譲れない思い入れだ。

僕は、「マイクロバイオーム論」から人と人との関係性を考えている。
例の「虫が好くとか虫が好かない」という関係性の根源の問題である。


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昨晩9時〜10時くらいに父が来て酒を呑んで帰っていった。
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ちょうど一段落したので、一杯やり始めたとこrだった。

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父の夕食は済んでいるので、帰ってもらいたかったがお茶をいっぱいと言って上がり、ちゃっかり酒を飲んでおる(笑)。

相変わらずタバコは吸いたいらしい。


セックスがしたいとは言わないが、一度だけ「愛子もあと10年くらい生きていればよかったのになあ」と言った事がある。
母が生きていた頃は二人でお風呂に入っていた。
セックスというのはマイクロバイオームのやり取りであるという僕の定義からしたら、いくつになっても身体というコロニーから移りたいと思うのは何らおかしくない。

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生きることも難しいが、死ぬことも難しい。
父を見ると自分の未来(と言うか老後)が見える。

僕には、まめまめしく食事を作ってくれる介護人は望めない。
人様の世話にならないで、迷惑もかけず食事を作りながら自宅で生きていきたい。


ピンピンコロリと死ねなかったら、施設で「健康診断と投薬に経管栄養、輸液、やがては、胃瘻の10年」が待っている。

次の本の主題である。