父と暮らす:父の死から学んだこと、私達がたどる道

私達は施設や病院で死ぬ運命である。

専門家に任せれば「治る」と信じ込んで、そこにに行く。
僕は父を自宅で亡くなってもらおうと決心していた。
背骨の圧迫骨折は寛解(元には戻らないがその状態で生きる)することも多いという。しかし、父はだめだった。どの時点で父は死に向かったのだろうかと頭から離れない。

f:id:masaya50:20200402093258j:plain:w350 庭の椿である。
お花の師範(妻)に綺麗に生けれたと褒められた。
椿は庭にあるときはきれいな花ではないが活けるとときれいになるという。
沢山の葉の間に埋もれるように花が咲く。
それを表現した(笑)。

「肺炎、壊死壊疽」は老人が無くなる直前に多く見られる。

父もそうだったと思う。
壊死壊疽は足にカサブタが多く見られ水膨れのように皮膚が膨らみ大きく皮が向ける。医学書で何度も見ていた。
糖尿病の患者には多く見られるという(30秒に一本足が壊死壊疽で切断されているという統計も見たことがある)。
亡くなる日に足を見たらすぐに分かった。食事を食べようとしなくなってすでに一週間経っていた。
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何とか元に戻ってほしかった。しかし、フレッシュジュースもスープも唇を浸す程度しか飲もうとしなかった。
病院に頼ろうかと何度思っただろうか。しかし、その先に何があるかは分かっていた。点滴や胃瘻で生きた所で、元には戻れない。医者はもどるというが僕には信じられない。その道を選ぶ家族を責めているわけではない。僕はその道を通りたくないということだ。
静かに家で庭も見て亡くなってもらうことを選んだ。


私たちの皮膚には常に「腐敗をもたらす細菌」が降り注いでいる。生肉を常温でおいておけばすぐに腐る様に身体も腐る。

皮膚は忍耐で一番大きな臓器だと言われる。
3kgの表皮細胞が強く結合(タイトジャンクション)してシート状になり外に押し出される。
30日で生まれたシートは外に滑落する。一日100gの細胞が押し出されるのだ。
免疫は皮膚の表面で外部と向き合いながら滑落していっている。


肺の内側は粘膜で覆われた「肺胞」と言われる泡のような小さな部屋(1億~3億くらいあるという)で構成される組織でできている。
呼吸をすれば、「肺胞」の中にも「腐敗させる細菌」が充満する。細菌からみたら、温度も湿度もちょうどよくまるでお菓子の家だ。

粘膜は皮膚と同じ様に表皮細胞が押し出されながら粘膜組織となる。そこでは、外部から入り込んできた細菌やウイルスと「身体に住む壊し屋(白血球)」はダンスする。


貪食細胞と呼ばれる白血球はまるで細菌と愛し合うように内に取り込みリンパ腺で分解した細菌たちを身体の中に放出する。
そして分解されたタンパク質や様々な生命の要素は私というコロニーで再利用される。
細菌は「汚物でも敵」でもない。私たちの生命を構成する大事な一部なのだ。
白血球の寿命は数日である。
白血球は細菌や破壊すべき細胞を片端から破壊して行く。自分を守る兵士というよりも細菌の方に近いと感じる。

しかし、表皮組織を作ることができなくなったら壊死壊疽が起こる。
細菌とのダンスホールの床が抜けているようなものだ。
2000年以降「身体と言うコロニー」にとってどれだけ細菌が重要な役割を果たしているかの論文が多く出ている。
食物連鎖というのは食べ物だけの話ではない。
多くのマイクロバイオームの果たしている役割はこれからの生命科学を大きく変えるだろう。
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毎日おしめを替えていたが、足がそんな状態ではなかった。

おそらく、最後の一日で起こったのだ。呼吸音が激しくなったのも同じ時期である。

何度も悔やまれる。3月1日に隣で寝ていれば、自分で立ってトイレに行こうとしたときに助けてあげられたのに。
大丈夫だと思ってしまっていたのだ。寝袋も用意していたのに、一人で起きて転倒させてしまった。
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その後、何も食べたがらなくなり、亡くなったのだ。
「お前が殺したのだ」と僕のブログにコメントした輩がいるが、そのとおりだ。
僕は医師や施設で孤独に死ぬより自宅で愛してくれる人に看取られたい。

僕は死ぬまで後悔し続ける。それで父には勘弁してもらいたい。

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2016年の母の亡くなった時を思い出す。

昼前に眠いと言って毛布をかぶって、夕方にそのまま亡くなった。
おそらく、慢性心不全の最初のアタックだったのだろう。
慢性心不全というのは何度もなじような発作と手術を繰り返して一年ぐらいで亡くなる。
専門書で読んだ。病院に行かずに亡くなった母を良かったと思う。ピンピンコロリである。

僕もそうなりたい。



父がなくなっていることに気がついたときに救急車が来て心臓に電気ショックをしていた。しないでくれと言いたかった。マニュアル通りにしなければならないのだろうが辛かった。救急士も辛いだろうが......

f:id:masaya50:20200402093242j:plain:w350 父は総務にいた。
毎月お花の先生が来てくれて
女子社員に教えていたのだが、
一緒に習っていた。
習った後で家で活けていた。


背骨の圧迫骨折は何も治療はない。

病院行っても仕方がないことなのだ。
弔問に来てくれた方が数年前にご自身もなったと言ってくれた。とにかく痛いそうである。
医療マニュアルではコルセットを付けさせるようだが、父はムズがって外しては僕が付け直していた。母もなくなる数年前に立てなくなって這ってトイレに行っていたことがある。一ヶ月くらい廊下に毛布を敷いて膝が痛くないようにしていた。
父は体重が重かったので這うことが出来なかったのかもしれない。
とにかく立てなくなるので大変だ。弔問に来てくれた方は3ヶ月かかったそうである。風呂も大変だったそうであるが、何とか這っていって旦那さん偽背中を洗ってもらっったそうである。それにしてもしばらくははいれなかったそうだ。


父は亡くなう前日に訪問入浴が出来てよかった。体力は使ったのだろうけど、おそらくあの時点ではもう何の手当も出来なかった。髭をそって、綺麗なベッドに入ってすやすやと眠った姿は思い出しても涙が出る。

f:id:masaya50:20200402093310j:plain:w350 花器は妻が習っていたお花の先生
から譲り受けたものである。
妻は花のことを何も教えてくれない
僕のお花の先生でもある。
庭の木を花器におくと面白いものだ。
母の遺骨を父はこっそり取っておいた。
納骨には一緒に入れることにした。
やっと一緒にいれるのだ。

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