絶望を表現する人たち(4)なぜ「テロ(無差別な殺人+犯人の自死)」の被害者の小学校名が第一報で報道されて、今は報道されていないのだろうか?(さっきのニュースでは学校名がはいっていました。)

テロ(無差別な殺人)の報道に接するたびに憂鬱になる。

被害者のご両親の悲しみは考えるだけで辛い。

そして、被害者の通っていた学校名を新聞社のサイトで知った。
交通事故なんかで小学校の生徒が亡くなった時に学校名が報道されることは少ない。いじめの自殺のときなどはあまり学校名は報道されない。学校が特定されて先生が避難されるのを嫌うのだろうか(問題が大きくなると報道される)?
実名報道に関しては大学時代にいろいろと考えさせられた。マスコミの世論誘導の一つの方法だ。そしてマスコミは政権(金持ちの隠れ蓑)に忖度する。

学校名に何らかのニュースとしての価値があると記者は考えたのだろう。
そして伏せられた。誰かが伏せるように考えたのだろうか?




今回のテロ(小学生と大人を殺して自分も死んだ)を知ってまっさきに思い出したのは「附属池田小事件 - Wikipedia」である(まあ、犯人は生き残ったが)。

犯人が絶望的な状況にいた事、被害者が裕福な家庭に属しているであろうこと。

共通点は多い。
加害者の行動が理解できないという点も共通である。
これから「加害者の周辺」が掘り下げられて行くのだろう?

なぜ犯罪が起こったのかということを掘り下げるには「加害者の人生」を見つめなければならない。
犯罪報道には意味がある。加害者が自分と同じ人間であることに気がつかせてくれるからだ。

business.nikkei.com

重ねていうが、被害者に罪はない、責められるべきは加害者である。

しかし、「テロ(無差別な殺人+犯人の自死)」という現象は、この社会が「平等・友愛そして思いやりの世界」へと向かっていない証左だ。

社会が変われなかったら、高い壁で区切られ、壁の中では個人が限りなく分断されたた社会が出来上がる。
上を見ればきりがないし下を見れば限りがない。


すでに多くの人が「公平であると感じて」生きていける社会ではなくなっている。
実質的に平等かどうかは問題ではない、どう感じているかが問題だ。
そもそも平等などという概念の定義はない。
そして、この社会の格差はごく最近に出来上がったものではないかと感じている。
50年前はこんなに「給料の差」もなく、辛い思いをしている個人を助けるシェルターが存在した。


無論「テロ(無差別な殺人+犯人の自死)」は昔からあった。
しかし、今ほどひどくはなかったのではないか?



世界には限られたリソースしかない。そして欲望は果てしない。
社会という装置(多層的なコミュニティ)は、「限られたリソースを分配」するプロセスである。




メキシコとの間に建設しようとしている国の大統領が「被害者に追悼」しているのは皮肉なものだ。

どれだけあの「ぽんつく」に金使って、どれだけ国内に失業を増やそうとしているのか。
しかし、「失業・移民」問題というのは社会格差の問題であり、ますますクレイジーリッチな人たちは増えていく。
masaya50.hatenadiary.jp





社会自身が生み出せる価値は決まっているが、「リッチさ=欲望」には限界がない。
そして「我慢」を守らせる「宗教・家庭」と言う制約を私達は失った(開放された)。



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僕は、3年前に警察沙汰(前科にはならなかった)を起こした。
些細なことで激高するし切れやすいと自分でもわかる。

犯人が他人と思えない。
僕は壁の同じ側にいる。
テレビでは「負け組」と揶揄される側だ。

いろいろと考えることも多く、憂鬱になる。
まだ僕の絶望は浅い。

酒飲みたい。


アメリカの学校でのテロが多いことに驚いた。
学校内における無差別殺傷事件 - Wikipedia

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