「格差」の研究 いつ生まれ、どこに向かうのか? 「機会平等の社会」が生む格差:「コネも金もなる木もない親の子供」は「奴隷」になる。

ようやく、まってきたので、ブログにアップしたい、膨大になるので少し時間かかります(笑)。

「コネも金もなる木もない親の子供」と言う概念を提示したい。


かつての社会における「差別=格差」は社会制度が生んでいた。

土地に縛り付け「職業=身分」を流動させないように制度化した。そうしなければ過酷な労働に従事させ、農作物を搾り取ることが出来なかったのだ。
つまり、税収とは、制度化された強奪なのである(今も昔も)。


社会の産業構造が変化して、流動労働力(土地に縛られないマンパワー)が必要とされ社会制度は変化する。産業革命に始まる「自由と民主主義」の始まりだ。

この時代の産業構造の変化を肯定的に評価するメンタリティこそが「能力主義」である。


その人の生まれたときから持っている特徴で社会的な役割を決定されることは「政治的に正しくない」とされた。
1960年代の公民権運動、その後の「"家"の開放・ウーマンリブ・宗教からの開放」は「制度的な差別」に勝利した。

つまり、私達はその社会制度を克服した(と思いこんでいる)。


そして、別な問題が私達を苦しめている。
「分断」と「格差(個人の責任における)」である。

問題の解決は難しい、おそらく僕の力では無理だ。
けど、問題の提起は出来る。
問題の見つからないところに「解決」はない。


この問題を解決できなければ、この社会はテロで崩壊する。
多く位の人が苦しみ、死ぬ。
それはなんとかしたい。とは言っても僕の孫の世代の問題である。

重要な問題は「制度とは社会の鏡である」ということである。
社会の状況を数字でグラフ化した所で、それは解決に結びつかない。

制度を破壊した所で、「構造」は残る。
と言うよりも、その構造こそが私達なのだ。

「政治的に正しく、公平な社会」に生きる私が感じているこの「格差感」は何なんだろうか?
公平な社会なのだから、お前が貧乏なのは、お前に責任があるというのは本当なのだろうか?



【 定義 】

「コネ」とは何かというと、「保証」である。「縁故」と呼ばれる場合もあるが、組織に入ったときに組織を絶対視するかどうかの指標である。
これを重視するのは当たり前のもので、会社に入ろうとする人間を僅かな試験や面接で判断できるものではない。

僕らの社会が小さい商店や企業から構成された板時代には、世襲は問題なかった。
小さい商店や企業や農家が肩を寄せ会って互いに助け合っていたのだ。
しかし、その形は変わる。






「金のなる木」とは、「家賃収入、株式の配当、会長職の報酬」といった何もしなくとも入ってくる

「格差」とは、比較の問題である。
SNSで大金持ち自慢を禁じれば、格差はなくなる(笑)。
「認識できる範囲=同じコミュニティ内」において自分と「同じレベルの生活」の人ばかりならば格差は存在しない。
「生活のレベル」が違っていても、納得できる理由があるならば格差感は生じない。


生活のレベルとは

同じコミュニティとは



【 起源:コネ(世襲)とは悪であろうか 】


【 起源:金のなる木(不動産資産)は水洗トイレとエレベータが作った 】


【 トロフィーワイフ、婿殿の経営学 】


【 創業家への経営陣の反乱、M&Aは利益の生じるところに生まれる 】


【 教育が格差を正当化する 】
多くの「学者先生方」は格差を論じるが、「世襲」と絡めて論じている人はいない。
自分もその一員であるからだということに気がついた。



【 温和な皇帝を求める 】








大きな遺跡を残して消えていった文明がある。
ここで論じている「格差」の問題は「群れを作るヒト」の普遍的な反応なのだ。


り、それは自己責任と思い込まされる。そしてこういう
masaya50.hatenadiary.jp


社会はテロ(命を捨て絶望を表現)で崩壊する。



masaya50.hatenadiary.jp
masaya50.hatenadiary.jp
masaya50.hatenadiary.jp