幸運な病のレシピ( 1126 )夜 :イーストで生地からピザ ヒトは料理をいつ学ぶんだろうか?

積木くずしというテレビドラマがあった。反抗期と言われる親と子の関係を描いたものである。

まさか自分の身に起こることはあるまいと思ったのだが昨年一年はまさに凄まじいものであった。

僕の性格からどう凄まじかったかはおおよそ見当がつくだろうが新聞沙汰にならないで良かったものだ。
運良く直接的な暴力事件には発展しなかったが.....。

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僕は自分の会社を継いでもらいたいと思っていた。

わずかながらお客様もいるし、自分の努力が形になる仕事だ。
しかし、十分な売上もなく、辛い商売である。

一部上場会社のOLだった妻(今はパートのおばちゃん)はそうは考えていなかった。

いい大学に入れば大企業で「勝ち組」となれると思うのは当然だ。
息子は学校の担任の言うこと(妻の代弁)と僕のいうことの間で自分の将来に苦しんでいたのだ。
卒業後の進路を考える頃から息子と僕は全く口を利かなくなり、互いに顔を合わせないようになっていった。
妻との喧嘩も、以前より「頻度も度合い」も増した。

親子三人という関係性の中でのバトルロイヤルである。

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それは「子供という将来の価値」の分配合戦である。子供の将来が「自分の老後に対しての投資」であった時代のメンタリティである。利回りの良い方に投資するのは当たり前だ。

教育方針の違いというのは自分たちの老後についての不安から起こる。
そしてそれは自分や相手の「人生の評価」でも有る。 

「お父さんのようになっちゃ駄目」「俺みたいになるな」なんと、恐ろしい言葉だろうか?
あたかも沈没船に自分が残りながら、子供を救命ボートに押し込むようだ。
多くの文学の主題でも有る。

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イジメとは、コミュニテイにおける少ないリソースの奪い合いから生まれる「関係性」であり、個々の「事件」ではない。

ヒト(多くの群れを作る哺乳類)は「集団で利益を求め配分」する。共通の「利益・価値」のために構成員は自分のリソースを提供する、そして公平(納得できる)な分配を求める。

フリーライダー(タダ乗り野郎)や同じ価値を信じない構成員(非国民)を処罰するルールがある。
それの現実への反映がイジメなのだ。
バスに乗り合わせた人の集団のようにすぐにばらばらになる一時的なコミュニティではイジメという関係性はない。

そこから逃れられない集団の中で少ない利益を分配するような関係の中で起こる。
まさに家庭や学校はその典型である。
そして、学校から卒業して、会社に入り、ローンにガンジガラメにされたサラリーマンも転職できないから、自殺して「人生を詰める」他ない。
ん、俺は経営者だがもっと悪いぞ、人生にガンジガラメにされている(笑)。

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だから、学校でも介護施設でも刑務所でも会社でも起こる。無論家庭でも起こる。
もちろん、教師や上司、親も重要なプレイヤーだ。子供がいい子で授業を受けるという関係は教師の評価に繋がり、給料に結びつく。部下がいい成績を上げれば上司の利益になる。同僚や同級生は上のに忖度して点数を上げるために邪魔者を従うように「空気を読ませる」のだ。

イジメに傍観者はいない、全員がプレイヤーである。
チームで、給食の配膳をする時に「怠けもの=フリーライダー」がいた場合、懲らしめて真面目に仕事させることは全員にとって有益である。傍観者は自分に利益になるから黙ってみているのだ。
下手に助けると、「自分も含めてターゲットになる」という「敵の味方は敵理論」である。連帯責任は凶悪な人間関係を作る。

だから「イジメという事件」を特定してジャッジしようとしても自殺は防げない。
「シカト」のような「イベントのないことが事件」であるようなイジメはどうにも手が打てない。
子どもたちも「ウツ」になって当たり前だ。受験のプロに任せるのが良いように萌えて当然だ。けどね、プロはその商品に自分の利益を乗せる。それは、「教育・医療・政治・介護・食事」皆同じだ。自分の人生は専門家に任せるべきではない。沈没するセウォル号で船長に室内にいろと言われた時、「外に出ようと騒ぐ子供」がいたら彼の国であれ程の惨劇はなかった。

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しんどかった、結局、どの学校に受験するかも僕には相談しないで決めて、受験に臨んだ。
落ち着く所に落ち着いた。妻の貯金がなければ進学は諦めなければならなかったし、僕は3年浪人して2流大学に入った負け組だから相談しても仕方がない(笑)。

カネがないから離婚しないで済んだ。貧乏も役に立つ。

彼の人生は彼のものである。
僕には金もコネもないから世襲する財産も強制する生き方も用意できない。

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テレビや雑誌、様々な所で、「子育の成功と失敗」という話を論じている。「成功」の定義は親の言うことを何でもハイハイと素直に聞く子供に育つことと考えられている。

それは、親が経営者でその会社に入った子に「ホウレンソウ(報告連絡相談)」をさせるようなものである。
 
しかし、上の言うことに忖度する社員ばかりでは、変化する社会に対してのイノベーションは生まれない。先進国の国力がダメになるのもよく分かる。


小学校ならばまだしも、社会の一員となるという過程では、誰かの言うことを無批判に従うなどというのは「自発的な全体社会」を生む。

しかし、学校では先生の言うことを聞かない子供を徹底的に排除する。ADHDと病名を付けて「薬理的ロボトミー」を施す。しかしそれも仕方がない。今の「社会全体が自分として生きようとすることを許さない」のだ。
無論言うことを聞く良い子に育ってもらいたいが、「東大に主席で入って在学中に弁護士資格とって一級国家公務員試験受かって公務員になって、省庁でナンバー2くらい(国会で吊るし上げられない)で定年迎えて、天下り何度もして沢山退職金もらって、親をファーストクラスで世界旅行に連れて行け」と言ってもなかなか聞いてくれない。

世界は少ないリソースの奪い合いである。
 
「相続・世襲」という関係性は苦しいものだ。しかし、「自分の能力で生きたいように生きる」というのも同じ様に苦痛だ。
有名俳優の子供が事件を起こすニュースを聞くと、「金やコネの有る親の子供」というものも大変だなあと思う。
無論親も辛いだろけど、自分より30年長く生きることもはもっと辛い。

そういえば、カジノで何十億もの金をすった世襲ボンボンの話があったなあ。金はあるところには有るものだ。少しは回ってきてもらいた。
「金もコネもない」のも良いものかもしれない。老後は心配であるが、自分であり続けることは出来る。
 

子どもたちが小学校の頃、ピザを焼く修行を始めた。

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そのうち僕抜きで作るようになり、朝3時に起きて、焼いてから学校に行ったりしてびっくりしたものだ。
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複雑な手順手順であるが、元々は家庭で行われていた事だ。小麦粉をこねて、イーストで発酵させて伸ばして様々な具材を載せて焼く。
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ピザは上に乗せるものによって全く違った味になる。オーブンの温度や置く位置によって味も変わる。
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料理はつくるたびに学ぶことが有る、気がつくことの連続だ。そして少しずっつ自分の思う味を作れるようになる。

このピザが美味いのには理由がある。
 

僕の表現したい「レシピ」というのはマニュアルではない。
学び実現しようとする姿勢だ。どうやら次の本で書きたいことは、それだ。

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二人で焼いた。妻は出来上がってき上がってきたピザを次々と食べながら、あなた方本当は仲良かったんだといった。

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今回の目玉はキャベツに生卵を載せて、お好みソースをかけた一枚だ(笑)。まさにお好み焼きである。

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後2日で彼は遠くに旅立って、もう帰ってこない。物理的には帰省することは有るだろう。しかし、論理的には、彼が向き合っている現実から「守ることも助けること」も出来ない。

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次に合うときは、長く一緒にいた友人としてここに戻ってくる。


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関係性は常に変わる。いずれ僕は「汚い爺さん(今はあまり衛生的でないシニア)」となっる。

彼は誰か愛する人と家庭を作り、どこかで生きる(かもしれない)。
なにも出来なくなった僕は施設に入る。施設から僕の訃報を聞く。
生命保険の受取人となって最後の関係は終わる。