「COVERS」(1)梅干しの思い出

フェースブックにはカバー写真を設定することが出来る。皆それぞれに気に入った写真をアップロードしてコメントを書く。僕は厨房仕事に欠かせない道具をカバーすることにした。COVERSというのは僕の大好きな音楽家のCDだ。有名な曲の「替え歌」が演奏されている。料理のレシピというのは大昔から家庭でそれぞれに奏でられている音楽のように思う。誰かに習い、毎日奏でる。皆同じ様に見えながら二つとして同じものはない。私達一人一人が違うように。「商品化された食事」は自分らしさを殺す。自分らしく生きるために僕は今日も道具たちと厨房に立ち、料理を作る。このシリーズはこちら



毎食、父は梅干しを食べるので小分けして出した。
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右の下段は2018年の梅干し。なかなかうまく出来たが、量が少なかった。左の大きな瓶は2017年の梅干し。
この年は紀州(和歌山)の漬け方をしてみたシソを使わないのである。上の白いツボも同じ漬け方だが、梅酢を捨てて重しをして3年おくと、またつゆが出てくるそうだ。中央の梅は2015年(申年)の梅干し。2016年1月に母は亡くなったので、一緒に漬けた最後のものだ。一番下の小さいのはおそらくその前の申年(2003年)の梅干しだと思う。申年の梅干しは災いを去らせると母は言っていた。コーヒーの瓶に入れて大事にしていたものが亡くなった後で戸棚の奥から出てきた。
33歳で食い詰めて東京から(逃げ)戻ってきたときには梅干しなど漬け方も知らなかったし、自分で漬けるなどとは思いもよらなかった。母に習うことが出来てよかったと思う。とは言っても母も農家の人に習ったと聞く。


なにせ年一回しか練習できない。上手くなった頃には梅を採るにも難儀な歳になっている。人生も一回しか練習できないから厄介だ。
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これが父母との最後の梅干し作りだった。

子どもたちも一緒に梅を採った。

 
遠くに行く息子に小さな瓶で分けた。もうこの土地に帰って、一緒に梅を取り漬けることもない。どこかの土地でその土地のものを食べて生きる。選別である。僕が遠くで暮らしていた時、母はいつも米と梅干しを送ってくれたことを思い出す。
 
秋に梅の枝をずいぶん落としたので大きな梅がなる。梅干しには興味を持たなかった妻が今年は漬けてみるという。楽しみだ。
 
ご飯を食べないと梅干しも食べないとよく言われるが、時折酒のつまみに食べる。旨いものだ。そのうち味噌も作ってみたい。
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父も積極的に頑張っていた。