しばたの物語(0):2020年の花見、杖との散歩
新発田にはカルチャーセンターと呼ばれる施設がある。
大きな公園と運動場がセットになっている。駅から歩いて10分くらいだろうか。とこには「大平洋金属 新発田工場」があった。終戦後、この会社でトロッコ押しをしていた父は経理部に移り、母と出会い50年勤務した。残業で遅くなる父に弁当を持っていったものである。masaya50.hatenadiary.jp
今ではきれいな桜が咲いている。
父の杖を持って散歩してきた。きれいな桜を見ながら今年は父と来れなかったことを思いながら桜を見た。桜の下を歩きながら3リットルは泣いた。2018年位からすっかり歩けなくなり、散歩に来れなかったがそれ以前は歩いてこの公園に来るのが日課だった。公園の喫茶でビールを頼んだ。
これは父の時折の贅沢であった。公園までも歩けなくなる頃(2年ほど前)にお店の人に父がビールを頼んだらもうお年だからコーヒーにするように進められた事があったそうだ。そんな話をお店の人にしていたら少し涙が出てきた。お店から見える桜の辺りは溶鉱炉があり水蒸気に空が赤く染まっていた。父にはどんな風景が見えていたのだろうか。公園に行くまで道すがらにお菓子屋さんが有る。
そこの(先代の)奥さんは父と工場で一緒に働いていたことが有る。散歩の帰り道にいつもお菓子を買ってきたものであった。「チュウカワ」というのが商品名なのだが父はいつも「ギュウカワ」と呼んでいた。お店によった。若旦那が出てきて、「ギュウカワ」を下さいと言ったら、「もしかしたら斎藤さんですか」と言われた。父はお店でも間違えて呼んでいたのだ。父がなくなったことを話し、先代の奥さんがお元気なことをお聞きした。店を出て家まで歩きながら2リットルは泣いた。家に帰り、この服装のままに駅前の寿司屋さんに行きたいと妻に話したらお小遣いもらえた。
駅前には昔からの寿司屋さんがあり、時折、歩いていっては一杯やっていた。若女将さんに勘定をしている時に父がお世話になったことを話したら、何と覚えていてくれた。父が若い頃に麻雀するのにみんな集めたとき、出前に来てくれたそうだ。なんとも嬉しかった。新発田の繁華街は「新道」と呼ばれている。
一回だけ、父と飲みに行ったことのあるカラオケバーに行ったら看板は残っていた。何度か母と二人で行ったことが有ると聞いた。数年前に場所を探して見つけたのだがとっくにお店はなくなっていた。バイオリンを習っていた喫茶店に行ってワインを飲んだ。
マスターのお母さんは102歳で同居しているという。羨ましい。父の話をしたら心が晴れた。歩きすぎて足がつった。前から気になっていた小さな焼き鳥屋さんで飲んで少し休んだ。
気がついたら家の布団の中であった。この50年で社会は変わった。
今私達を苦しめている様々な事象はこの変化を考えなければいけない。薄っすらと感じていたことである。
戦後、時代がどう変わったのかを父と母の視線で考えてみたい。
ずいぶん長い話になる。
1938年「日本曹達(ニホンソーダ)」の工場として誘致された。鉄鋼を溶解する電気炉を持っていた。
当時は「赤谷(山の方に1時間位の路線があった)」の鉄鉱石から鉄を作っていた。
1964年「大平洋ニッケル 新発田工場」となる(後に大平洋金属)。
1984年「新潟金属」として東港に移転
1999年 廃業
僕は最後の組合の委員長だった。学ぶことの多い3年間であった。父と一緒に働いた。これもとんでもない体験であった。
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最後の委員長であった。