幸運な病のレシピ( 1737 )昼:栗ご飯、父と昼食「父の物語」を聞いた。

【 2019/11/24の食事 】

いつか書こうと思っている物語がある。
僕のブログに質問が来たので、記録しておきたい言葉がある。
少しずつ書いていきたい。


昼食に父が来たので、食事をしながら話を聞いた。
話の内容はすでに僕にはわかっているのだが、話を聞くことが父にとっての大事なプロセスだと思っている。

20年前に僕が体験した事を書いたページだが、このページをご覧いただいた方からお問い合わせを頂いた。
少し思い出しながら父と話をした。
masaya50.hatenadiary.jp

www.youtube.com

東京でソフト会社で生活していた33歳の男にとって、故郷の鉄工所の現場は辛かった。
けど、今ではかけがえのない3年間だったとわかる。
父に感謝している。

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メールへの返信

いつか、父と母の物語は書きたいと思っています。

今、父は90歳、母は亡くなりもうすぐ4年です。
https://masaya50.hatenadiary.jp/search?q=%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%AB


新発田という街は、農業地帯の中で中心的な商業都市でした。
そこに「大平洋ニッケル」の新発田工場がありました。
夜中、溶鉱炉が動き、ニューカレドニアから運ばれたボーキサイトを原料にニッケル鋼のインゴットを作っていました。
ニッケル鋼を鉄に混ぜるとステンレス鋼が出来ます。

日本では日本冶金工業大平洋金属(ニッケル)が海外に鉱山を持っているために独占的に握っていました。
https://www.nyk.co.jp/

新日鉄がバックについて世界の鉄鋼需要を背景に大きくなっていったのです。

私達家族はその会社の城下町に生きていました。
家から見ると溶鉱炉の煙に溶けた鉱物の色が移り不気味でした。
https://masaya50.hatenadiary.jp/entry/20160404/1459717924

社長(東京の会社の重役と兼務)は殿様のようでした。
僕の父は、高卒でしたが上手く立ち回り、社長の覚えがよく、工場長を牽制する(スパイ?)の等な立ち位置でした。
何人も工場長(東京本社採用)は入れ替わりましたが父は残り続けました。


僕は18歳で東京に行きました。
33歳で食い詰めて帰ってきました。
結局、いい仕事はなく、父が総務部長をしていた大平洋金属に入りました。

工場長とは犬猿の仲の父の息子の僕は現場に回され絶望しました。
まあ、この話はまた今度。




僕は、今では大平預金属のことも、誰のことも悪く思ってはいません。
すでに長い時間が過ぎました。
しかし、同じようなことが今でも繰り返されています。

伝えたいと思います。


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「商品化された食事」「政治的に正しい皿の上の栄養学」が『ガンや、認知症、心疾患に循環器、壊疽に肺炎、透析に眼底網膜症、骨阻喪症にリュウマチ痛風膠原病に難病指定、薬で下がる検査値の異常(糖尿痛颶風高血圧に高脂血症)』を生んでいる。
「病(と医者が呼んでいる災厄)」は食事の反映でしかない。

炭水化物は毒ではない、誰もが抗えないほどに魅力的すぎる。食卓は、炭水化物が中心になり、緩慢で直接的な因果関係の見えない欠乏症を生む。
食事作りは面倒だ、私達が作れなくなったのには理由がある。そして僕は毎日素材から食事を作る。



今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
『炭水化物がいらない食卓』はこちら『幸運な病のレシピ 宣言』は[http://d.hatena.ne.jp/masaya50/20170815