ことことこーこ 阿川佐和子さん 最終回 「義務介護」制度がやってくる。(2)
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母が亡くなって5日と経たないうちに、ネズミとカエルに『会社を潰せ、父を「介護施設に入れろ」』と恫喝された。
2016年1月に亡くなる数年前から母は、料理をすれば「鍋を炭」にする。
ご飯を炊けば炊飯器から飯が溢れ出す。
父は些細な事で怒り、運転が出来なくなっていた。
隣に住む僕は、些細な事で喧嘩ばかりだった。
そして和解した。僕はこの日の事をよく覚えている。
多分この前後だと思うが、市役所に頼んで、父と母の介護認定を行った。
その場に立ち会ったのだが、何とも憂鬱になった。
まさにマニュアル通りに進め、税金の支給ランクを決めるのである。
その時に感じた疑問を解決するために、沢山の本を買って読んだ。
嵐の前触れだった。
まず、介護施設の現状を勉強始めた。
その後で、介護施設での職員の虐待のニュースが出てきた(現実にはたくさんあるに決まっている)。
施設での職員にとる入所者への虐待は学校でのイジメの構造とそっくりである。
つまり、家庭での親子関係と一緒である。家で親の世話しながら虐待している例も多いだろう。子供に対する虐待や妻に対するDVと同じである。
この問題の構造は根深い。いずれにしても、力衰え、王座から墜ちた王は荒野でさまよい、死する他ない。
暴力・虐待と、愛情の間に境界はない。
離れられない関係性がそこにあるのだ。
そして、家族というものはその最たるものであった。
何も出来なくなった老人は手がかかる。
これはアタリマエのことである。
遠距離に居ながら介護など出来はしない。
足の爪切りから、痒いところへの薬塗りもしなければならない。
妻の両親は母を亡くなるまで家で看取った。
足の爪切りは妻の仕事だったそうだ。
父の仕事をしながら、自分の人生を見返しているのだろうなあと思ったら涙が出てきた。
家族というのは、介護を学ぶ場である。
精神看護 2016年 11月号 特集1 足の爪切りは患者さんの人生を変える/特集2 脱施設化の先進地イタリアの素顔が見たい
- 作者:
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2016/10/24
- メディア: 雑誌
一番の問題は、子供のメンタリティの問題だ。
子供は、小さい頃から、こうしろ、ああしろと言われるが、そんな人生にならない。
自分の思い通りに生きれなかった責任を自分の人生を「(あなたのために)指示」してきた親のにあると思う
親は「子供のためだ、良かれと思っている」と言いながら自分の利益になることを知っている。
僕はこれを「かぐや姫効果」と呼んでいる。
「一生懸命勉強してお父さんのようにならないのよ」と言う言葉は凶悪である。
これ一言で、夫に殺意を芽生えさせ、子供に父親を軽蔑させる原動力となる(笑)。うちの話じゃないですよ。
まあ、給料の安い夫が悪いのだが、妻がそんなものを選んだことが運の尽きである。
介護というのは、子供が生まれた時から始まる「親子関係」の結末である。
まさに教育の問題と一体である。
いつも思い出すのは「ニュー・シネマ・パラダイス」と言う映画である。
アルフレードとトトの友情の物語である。
リーサルウエポンという映画のシリーズがある。
1〜4まであるのだが、最後の作品では、家族がテーマだ。
最近見た映画では、「ヴィンセントの教えてくれたもの」が素晴らしい。
田舎から都会に出てきて、生活の場が父母のもとから離れる。
もうその時点で、「戸籍上の親子」でしかなくなるのである。
「共に生きる家族としての親子」との関係をもっと論理的に表現したいのだが、難しい。
僕は父母との関係の中から、幾つものことを学んだ。
子供や他人に向き合うすべを学んだ。
次の次の次ぐらいの本の主題である(ハア〜????)。
というよりも、後20年生きていたら、僕や妻の現実になるのだ。
すべてを忘れ、何もできなくなり、その瞬間しか記憶に残らない。
記憶のない海のようになる。The sea has no memory
「ショーシャンクの空」のラストの海である。
ハーラン・エリスンさんが、書いたか書こうと思っている作品の作品のシーンをインタビューで答えているのを覚えている。
「海辺の砂に半分埋もれた自転車の車輪を手で回している健忘症の男」の物語である。
ここから30分ほどの海辺を思い出す。
918499
明日は、年末までの仕事の中間地点(仕様確定)の日である。
耳の奥にシーと言う音が聞こえる。
疲れているようだ。