s幸運な病のレシピ( 55 ) 手巻き寿司、ローストビーフ、食べる楽しみ諦めない

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2015年4月8日以降、炭水化物をいかに摂らないかに苦心してきた。
「幸運な病」のに、共著者の妻がいいことを書いてくれた。「食べる楽しみ諦めない」。


今日のゴールである。

帰省していた娘が戻るので、今日は手巻き寿司にした。
人が来ると手巻き寿司を良くしていた。炭水化物を摂らなくなったら、まるでしなくなった。
ちらし寿司は全く食べることはないが、手巻き寿司はシャリ抜きで大いに食べるのである。




ローストビーフ的厚切り牛肉である。あんまりうまくできなかった。塩がたりなかったのである。







僕のお寿司である。
大変うもうございました。





父の食事である。
ご飯だけが娘の作った手巻き寿司になる。






またしたいものだ。





2015年、妻は同じものを食べ、時に自分の血糖値を測り。共に苦しみ喜んでくれた。
喧嘩ばかりの19年間は、「サイコパスな眼科医の失明宣告」のおかげで一時休戦となった。

母が亡くなり、父と暮らすようになった今、「家族」と言うものがなにか考える。




今の御時世は、年取れば家族とともに暮らすことはままならない。
田舎に仕事はなく、時間をバラ売りする労働市場は、子供と共に生きる事を不可能にする。
共に暮らさなければ、ただの汚いバアアとジジイである。
おまけに「親」というのは自分が小さい頃、出来もしないことを強制して、苦しめてくれた張本人である。

『一生懸命勉強して、学年で1番になって、東大主席で卒業して、国家公務員になって天下り難度もして、大笑いの人生送りなさい』などといわれても、努力すれば誰でも出来るもんじゃない。
まあ、たしかに誰かそういう人間はいるんだろうがなあ。

「努力すれば誰でもなれる」と思わせるのは「機会の平等と偏差値のマジック」である。子供がかわいそうである。しかし、そんな育てられ方をした子供にとって、年取った父母は絶好の憂さ晴らしのターゲットである。



昨今の三世代住宅は台所を別に作るという。住めたとしても同じ人生を生きたことのない親子は道経する他人でしかない。


長寿は幸福の代名詞ではなくなっている。

父は「幸運な例外」である。


憂鬱な時代ではあるが、諦めることはない。昨今、歴史書を紐解いてみれば、どの時代も似たようなものである。
命取られないだけ、幸運である。




食事を共にするというのはとても大事なことである。

一緒に食べること僕は大事にしたい。

『幸運な病のレシピ』は、見せびらかすための食事でも、読者の生活習慣病への恐怖と怠惰さを「いじる」ものでもない。
「苦しまない老後」・「これからを不安に思わない今」のための食事である。
食事作りは重労働である。
そして、何を基準に作ったらいいのかという「証拠=家族」を私たちは失ってしまった。


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思いっきり、コーヒーをこぼした。

もちろん拾えるだけ切ろった。
明日は一味違ったコーヒーである。