幸運な病のレシピ( 2028 )夜 :娘の料理、カレー、イーストを使ったパン、おやつはトムヤンクンのカップ麺、「しばたの物語」の事

【 2020/4/18の食事 】

家族の食事の難しさ

●去年から娘が帰ってきているのだが、厨房を一緒に使うとなると実に難しい。

嫁<=>姑の関係とはこんなものかなと思う。
2015年位から本格的に料理を作り出したのだが、その時は、妻との関係が難しかった。
最初、何かを使おうとすると仕舞場所から片付けの手順まで皆妻に従わなければならないのである。
味付けも僕の味付けは嫌だという。まるで新妻が姑にいびられるようであった。

f:id:masaya50:20200419045707j:plain


●これはかなり深刻な問題を生む。

一時は全く違う料理を勝手に作って別々に食べることも多かった。
その上、子供を自分の側につけて家庭内でのパワーゲームが始まった。
正直、くたびれ果てた。

そして2016年に母がなくなり、今のコンセプトが出来始めた。

f:id:masaya50:20200419045716j:plain

●本格的に父の介護が始まり、

2016年後半位から完全に厨房の仕事をするようになった。
父の食事作りは容赦なく、毎日時間に関わらず父は食べに来た。
朝の5時に夕食食べに来てくれても用意した。一緒に食べて、励ましあった。忘れられない体験である。
皿洗いからゴミ捨てまでこなすようになる。

最近、ようやく、妻も認めてくれるようになり、僕の食事哲学に納得してくれるようになってきた。なんと5年がかりである。
f:id:masaya50:20200419053244j:plain

僕の食事哲学

●炭水化物が毒であるかの如き考えにとりつかれたことも有る。

体重もこの5年で80kg~110kgの間を行き来する。
血糖値は高いだろうが検査値以上に大事な身体の兆候は良好だ。

●食事というのは自分の延長であるから一人ひとり好みが違う。

自分らしさとは食事に対しての好き嫌いで表現される。
だから「過食・拒食・依存」は生きている環境に対しての自然な反応なのだ。
医学では同仕様も出来ない。家族という関係性の中で生まれる現象なのだ。

それでも、その人が作ってくれたものを美味しいと食べることは重要だ。
そこに問題が有る。

しかしこんな面倒だったらスーパーから半額になった便と買ってきたほうが簡単だ、カップ麺のほうが美味しいのよね。

基本的には以下の4項目を重視している。
○「商品化された食事を避ける」
○「乾燥・濃縮・抽出工程を通る食事を避ける」
○「できるだけ依存物(炭水化物・酒)を避ける」
○「自分を知った人が作る食事(作った人と食べっる人の顔が見える)」

最後の項目は逆説的であるが自分の欲望を縛るものだ。この人の作ったものは文句を言わないでtべなければならないと言う食欲を閉じ込める檻なのだ。

●そして、素材(肉魚野菜)の持っている細胞の内の「水」を大事にする食事だ

できるだけ大事に食卓に並べるような食事が良い。
一つの細胞の中には80億を超えるタンパク質が含まれている。
政治的に正しい栄養学はその中のわずか40種類程度があれば健康だと太鼓判を押す。

●つまり、食品の数ではなく、調理のプロセスである。

「一物全体食・身土不二」これは、食物連鎖の中で代謝されてきた生化学物質を「身体という細胞のコロニー」に提供する食事のことだ。

●「生命科学・医学・栄養学」は

「人」を(DNAを設計図に)工場で生産された自動車のように考える。
だから健康になる食事も皆同じものなのだ。

●コンピュータサイエンティストの僕(笑)は

DNAは「細胞の持っているプロトコル」にしか過ぎないと考える。
細胞は、身体の中のそれぞれの環境で必死に生きようとしているのだ。
その適応の姿を人は「発生」とよび、おとなになったとか、もう無理が聞かないとか言って、やあがて「老化」して死ぬのだ。
外部の情報を受けたときの自分お振る舞いと外部にどんな情報を流すかが記述されているのだ。
ウイルスや細菌はこのプロトコルの「追加削除変更」を担うのだ。インターネットではRFCと言われるプロトコルである。お、シンコロナ絡みだ!

f:id:masaya50:20200419053308j:plain

「しばたの物語」お話

●1980年代まで見られたような家族の関係はもうない。

親と子が一緒に暮らしているのは同じかもしれないが、子供は親の商売を継ぐわけではない。
「なりたいものになれ」と放り出すだけだ。
会社に入って「他人の決めた時給」で仕事をする他ない。
高い時給を望むには上に忖度して気に入られなければならない。

●無論親に金のなる木(家賃収入・会者経営)やコネ(会社訪問であってくれる経営者)があれば別だ。

そうでなければ親は負け組(笑)で、マル貧で、(能力がない自己責任)そんなやつの言うことなど、聞く必要はない。
自分はもっと優秀なのだ。
そんな事を感じるが、これは僕が父母に感じていたことと全く一緒なのだ。

●考えてみれば、東京の大学行ってから父母とはろくに口を利かなかった。

毎日が嫌だった、自分の周りは自動車乗り回して旅行行って、女の子と楽しくやって、就職もスラスラ決まるようなやつが居た。
なりたいものになろうとして、結局はこうなったのだ。

f:id:masaya50:20200419053331j:plain

●新潟に帰って父の勤めていた鉄工所に入り現場で鉄を切った。

やがて労組の委員長になり、労働争議を経てそfと会社の経営者になった。
とんでもない体験である。
経営者とその取り巻き(部長連中)は倒産のよく日から仕事(=収入)があり平の行員は雇用保険が終わっても次の仕事がなかった人も居る。
ずるい奴らは皆友達だ。
貧乏人はいがみ合う。
金のない人間は足を引っ張りずるい奴らに忖度する。

●「いじめ、パワハラ、忖度」は私たちの本質かもしれない。

そしてかつての社会は小さなコミュニテイの多重・多層的な組み合わせがあった。
今は違う。この50年で決定的に代わった社会を描きたい。

●父の逝去から、まだ少ししか時間が経っていない。

教えられたものはなにかこれから見えてくるだろう。

f:id:masaya50:20200419053218j:plain


あ、そうだスイーツも食べちまった。

masaya50.hatenadiary.jp


「商品化された食事」「政治的に正しい皿の上の栄養学」が『ガンや、認知症、心疾患に循環器、壊疽に肺炎、透析に眼底網膜症、骨阻喪症にリュウマチ痛風膠原病に難病指定、薬で下がる検査値の異常(糖尿痛颶風高血圧に高脂血症)』を生んでいる。
「病(と医者が呼んでいる災厄)」は食事の反映でしかない。

炭水化物は毒ではない、誰もが抗えないほどに魅力的すぎる。食卓は、炭水化物が中心になり、緩慢で直接的な因果関係の見えない欠乏症を生む。
食事作りは面倒だ、私達が作れなくなったのには理由がある。そして僕は毎日素材から食事を作る。



今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
『炭水化物がいらない食卓』はこちら『幸運な病のレシピ 宣言』は[http://d.hatena.ne.jp/masay