食を楽しむという生活習慣

2017年7月位から食事を作るドキュメンタリーを動画に撮っている。

もうすぐ1000本になる(笑)。このまま死ぬまで続けるつもりなのであと2万回続く。長い旅だ。
嫌なコメントを書き込む輩も多いが、思わず「ああ、そうか」と思うこともおおい。

先日、「食を楽しむという生活習慣」という言葉をいただいてとても嬉しかった。

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魚をさばいているシーンを見て、「あんたプロじゃないでしょ、怪我するよ」などと書き込む輩もいた。

しかし考えてもらいたい、食事を作って金を儲ける「プロ」などという存在はかつてはいなかった。
家族というシェルターは「厳しい食事のルールを持ち」家族を守り、同時に抑圧していた。

皆、食材を手に入れて(お店で買うということも少なかった)家で調理していたのだ。
僕の母の時代は、家庭以外では食事はできなかった。食堂も多くはなく、お店ですぐに食べることのできるものも売ってはいなかった。
それが当たり前だった。

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そして「結核、盲腸、チフスコレラ」と言った感染症で死が隣り合わせだった。
家族が互いに寄り添い死に至る病と向き合うほかない時代だった。

決してその時代に戻りたくはない。
もう汲取トイレは怖い。
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そして、医学は「よく効く薬で」感染症や多くの悲劇を一掃した。
死を待つほかなかった糖尿病患者に「インスリン」という魔法の薬を処方した。

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そんな「医学」という権威を信じる私たちは
「糖尿病、痛風、高血圧、高脂血症
「ガン、認知症、心疾患、循環器疾患、腎不全」
膠原病、難病、リュウマチ骨粗鬆症
「壊疽、肺炎」
こういった「治療の終わり」のない災厄を恐怖している。



医学は、それぞれの災厄を「病気」と呼び「治療してと薬を処方」する。
しかし、その治療とは元に戻すものではなく、火災の延焼を防ぐために隣家を壊すようなものだ。
眼底網膜症の治療を医師は「破壊的治療」と言う(笑)。一旦レーザーで焼き潰した眼底は光をとらえることはない。
5-6回繰り返したらどんな光景が見えるのだろうか。
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薬を処方すると言っても抗鬱剤の様に現実の苦痛を見えなくするだけの目隠しであったり、単に検査値を下げるだけのものであったりする。





本当の原因は、社会の変化の中にある。

これらの災厄は独立した原因から引き起こされる「単純な病(原因と症状が1たいの対応している)」ではない。
結核・梅毒ー>病原菌、脚気壊血病ー>ビタミン欠乏
身体というコロニーの中でおこている広範囲なコミュニケーション不全なのだ。


これらの災厄は同じ原因(生活習慣=社会の構造)から引き起こされ、やがて死にたどり着く。




2015年以降、苦しみながら毎日食事を探している僕を見て妻はこう書いた(共著の中で)。

夫と暮らして思うこと。
好きなものをお腹いっぱい食べている。
炭水化物だけは、もう一生分食べてしまったと諦めた(笑)。
お酒も飲んで人生楽しそう。
少し我慢はあるけれど、食べる楽しみ諦めない。
自分自身で、病をコントロールできるのは
ラッキーなこと。
自分の「からだ」とおつきあい。


先日、ある人と「僕の糖尿病や食事のこと」を話していて僕がとても「恐れている」「医療を拒否している」と(哀れむ様に)言われた。
その人は最近「心房細動」の手術をして、もう安心だと言っていた。何も恐れていないそうだ。

ああ、僕も医者を信じて安心できればいいのになあと羨ましく思う。



思うことは多い、今も苦しい。
医師の言う通りに食事をして、処方を受けていればいいのだと思いたい。

しかし、現実に周りを見れば、老人たちは苦しみながら死ぬ。
自分が逃れられるとは思えない。



現実が歪んでいるのは対策が間違えている証拠だ。

果たして僕の仮説は正解だろうか?
20年かけて確かめてみたい。それは僕のためであり、僕と同じ価値を信じる人のためである。

愚かかもしれないが、2015年に一度は捨てた命である(笑)。
生きているだけでも嬉しいことだ。

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まとまらないが、しかたがない。
明日もまた料理を作る。



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