「余命宣告は人を殺す」(1)  当たるも八卦当たらぬも八卦の医学

僕の本棚にも、余命宣告から復活したという系統の本が多い。
レシピ本であったり、医者の書いた本だったり、様々な仕立て方をする。

どの本もよく似ている。

今まで元気だった私がふと検査したら病気だとわかり、余命宣告された。
絶望した。
しかし、ガッツで乗り切ったぜ。
私万歳、家族の愛は強い、先生と二人三脚で、切り抜けた。
先生ありがとう、言うとおりにしたら生き延びたよ、医学万歳! という感じだろうか。


確かに闘病記は面白い

多くの医学書では「個人的な体験でしかない」と半ばバカにして切り捨てる。
先日もある医者が「エビデンス(統計的上の効果を根拠とした治療)」と「アウトカム(検査値の正常化の確認)」こそが医学なのだと書いているのに遭遇したが、吐気がした。

確かに治療は侵襲的である。その侵襲的な治療をなんの根拠もなく勝手なことやっては困る。
とは言っても、医学史を少し学べばいかに医学が今の常識から離れたことをしていたかわかる。
未来のある時点から見たら、今の医療だって広範囲な蛮行としか見えないだろう。



一人一人の患者の「幸せ」こそが医学の目的であるはずである。
その目的に向き合おうとするときに、患者を統計の中の一つの数字としてみるような考え方はあまりにお粗末である。
統計にあらわれる数字の一つ一つにからは患者の喜びと悲しみが見えてこない。

エビデンスという「統計」は最初に答えを持ってそれの裏付けを探すのだからタチが悪い。


臨床で患者に向き合う先生」が患者と苦しみを共にする。そしてそこから何かが見えてくると思っている。
個別から普遍へ向かうのは並大抵ではない。
個別の患者の体験を真剣に聞くことで、思わぬことを教えられることもあるのではないか?
ましてや、生活習慣病に対峙するには回復できた患者の生活の中からなんらかの法則を見つけることが必要なはずである。




「医者が病気になってわかったパターン」の闘病ものがあるが、「こんなことしかわからないでどうするの」と思うことが多い。
医者にいいたい。もっと文学を読め、人を知れ(笑)。







しかし、余命宣告が当てにならんものだということは誰も書いていない。

あたかも検査値が一つの故障を示しているかのごとく医学は捉える。
まるで、検査工場で様々なテストをして自動車の故障を見つけるように患者を扱う。

しかし、一つの検査値は多くの要素が絡み、ある値を取っている。単純な因果関係を表しはしない。
優れた臨床医の「直感:過去の体験から飛び越えて結論を見つける力」にかなうものではない。





単に検査値を落とすことは可能な薬剤が多く出ている。
しかし、本当の問題は検査値の異常ではない。
ガンのマーカーが落ちたところでガンは消えはしない。
生活習慣病の「合併症と呼ばれている災厄」は、「食事」の生み出す当たり前の帰結なのだ。
様々な検査値の異常は単なる「前触れ」でしかない、本質的な原因ではない。


簡単に検査値を(劇的に)正常にする薬は患者の現実を見えなくする。
年老いて、複数の検査値が以上になってきたら、その数だけ薬を飲むことになる。「マルチファーマシー問題」である。


決して検査値を正常に保っていたところで死を逃れられるわけではない。

劇的に検査値を下げる薬はブロッカーと言われ身体の中の代謝活動をブロックしてその成果物である検査値を下げる。しかし、ブロッカーがブロックするたんぱく質は様々につかわえているk農政は高い。医学が人間を分析しきったという驕りが多くの災厄を生む。そして、その災厄に直面した時に、医療は貴方を見捨てるのだ。「寿命」だとか「自業自得」とかいう言葉で切り捨てる。「家族」には納得いかない言葉である。





患者が求めているのは、自分自身の幸福(な死)である。

患者は検査値というマーカーを落としてもらいたいから医師のもとに行くのではない。
人生の最後の瞬間の災厄を逃れる術を知りたいのである。


それが困難でも、乗り越える勇気をもらいたいのだ。


これがナラティブの本質だ。







同じように検査値がある値であっても大変に多くの要素が絡み合ってその値になっていたとしたら検査値は何を表しているのだろうか?





僕は、身体の状態は「食事という環境」が身体という形に現れているものだと考えている。この考え方のバックボーンには「身体」を『「私細胞」とマイクロバイオームのコロニー』と考える、食事が代謝されて体液となり、皮膚という「タイトジャンクション」で結ばれた細胞のシートないに満ちているという見方である。

工場で設計図に従って作られる規格品のように考えない生命観である。






癌の研究が進んだと毎日のように言われ続けている。
ずーっと進み続けているのっておかしくないか?
新しい「知見」が毎日のように報告される。
今まではなんだったのかの説明もない。



僕は2015年に失明を宣告されるが、その時の医者の顔を忘れることができない。
帰るときに蔑むように看護婦が僕に眼底網膜症の数ページの小冊子を渡して、よくお読みくださいといった。
眼底のレーザー凝固をして内科で診察を真面目に受けてインスリンを始めなさい、そうしなければ目が潰れるのですよと言われたのだ。

その時は目が痒かったので診察を受けて、そのまま眼底の検査になったのだ。


て術を受けないでもう少し頑張りたいと話したら、鼻で笑われた。

(検査前は)ある目薬を処方しようよ思っていたが、この薬は眼底網膜症を悪くする可能性があるので、こちらに変えますからねと別な薬を見せられた。


結局、僕はショックで、家に帰ったのも覚えていなかった。


まあ、あの医者にとってみたら当たり前の日常で、バカな患者が一人手術しないで帰ったというところなのだろう。
マニュアルに従った対応だったのだろうけど、ひどいものだった。






僕はまだ失明していない。
これから(いずれ死ぬ)なのだろうけど、

僕は「僕の生活」で「身体という世界」に向きあっていくほかない。
このブログは、その記録である。
果たしてどこに落ち着くのであろうか?

あと10年生きるつもりなので、その間は続けようと思っている(笑)。

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