美味しさの栄養学(2)食事調査の予断、何を見つけたいのか?

予断とは、「問題の解決」を目指すときに、「事実確認」の前に結論をもって「現実」を見ることである。


僕の2013年からの「糖質制限」はまさに、これであった。

「糖質が悪玉」であるという「予断」をもって、自分の生活を変えたのである。
確かに、「症状*1」は軽くなった。
しかし、問題は解決しなかった。


自分で、生活(病状=生活を映す鏡)に向き合っていなかったのだ。

僕は酒がやめられない。

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その原因を探している。
抜け出したいからである。
酒を飲んだよく日は、体調が悪い。
足のしびれの感じも違う。
原因は、酒と一緒に食べているものかもしれないが、どうすれば良いのかわからない。


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時折、youtubeに動画をアップした後で撮った動画を見直すことがある(パソコン上のファイルを早送りしてみたりするのだ)。
そうすると思わぬことを見つけることがある。

今の自分は間違えていないと思うのは当然である。
しかし、そんな心が「予断」を生み、誰かを傷つけ、自分を迷路に追い込んでいく。

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先日ある人(医療関係の職業についていた方で、最近、心房細動の手術をしたと聞いていた。)と話をしていた。
その時に「糖尿病はいいんですか?」と言われた。
言われた時に、「ちゃんと医者行かなきゃダメだよ」といいうニアンスが感じられて、もう大変。ずいぶん長い電話になった。


権威的な言葉つかいに思わずムカとしてしまったのだ。

その方に僕がとても怖がっていると言われた。
医学を拒否するのは間違えだとも言われた。

まあ、僕が「心房細動の手術」をしたことを聞いたのが端緒だったかもしれない(笑)。


しかし、確かに、恐ろしい。



しかし、その人は、恐ろしくないのだろうか?
医師の妄言に従順な生活をしているから自分は大丈夫と思っているのだろうなあ。
家で野菜作って、添加物避けて、深呼吸するようにして、毎日散歩するという。
中世に行きていたら、教会で護符を買っていただろう(笑)。もしかしたら「ころり観音」に行っているかも。




毎日食事を作る原動力はどこにあるのだろうか?
「毎日の食事作り」と「医師や薬や健康情報」に頼るのとどこが違うのだろうか?

考えることしきりである。





ころり観音に行きたがっていた母を思い出す。
ああ、あの時母はきっとこう思っていたのだろうなと考えることがある。

連れて行ってあげればよかった。
とは言っても眠るように亡くなった母は幸せだっただろう。
自分が悲しいと感じる。

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しかし、依存で無い生活を本当に望んでいるのだろうか?

ああ、心に平穏は訪れるのだろうか?


明日の朝は何を作ろうかなあ。




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*1:症状:
口乾、多飲、歯茎の出血、五十肩、足のしびれ