「今日の食事が死に方を決める 明日の食事が生き方を決める。」(9) まずは始めてみよう。いつか一人でで生きるのだから、その時のために問題を共有して乗り越える。

「 今日の食事が死に方を決める 明日の食事が生き方を決める。 」のシリーズはこちら


このシリーズも見てね。


「幸運な病」の構想を得て、書きはじめている頃(2015年〜)、いろいろなことに気がついった。
他人がどんな食事を毎日しているか分からないということである。
炭水化物抜きの食事を作っていると、家族で好き嫌い(食う食わない)が激しいのである。
諍いになることも多い。




そして後片付けの「深さ(どこまでやるか)」である。合格点はどこになるのかが個人で違う。
これも諍いの原因である。
結婚した頃から家事を手伝おうとしても、『お父さんに皿洗わせるともう一回洗わないといけないから手間になるからやめて』と何度言われただろうか。

この「衛生観念」は個人的なものである。



後片付けをして家族の文句が出なくなるのには時間がかかった。
僕にはきれいと思いながら、家族から見たら、もう一度やり直しのレベルだったりする。
うちでは皿洗い機を使うので、一回に詰め込む皿の量を考えて、手順を決めて文句が出たら素直に聞いて手順を変える。
これの繰り返しである。

ここが汚いから洗い直してもらいたいと言われた時に癇癪を起こさないことが大事である。


そしてもっと大事なことは変わっていくノウハウを持つことである。

どう変えればいいのか、それは問題ないのか?
僕は炭水化物なしの食事を組み立てる試みを継続しているが、果たして正しい方向に向いているのだろうか?

偉い先生様のご研究とちがている結論に向かっているが正しいのだろうか?

何が正しさなのだろうか?

僕の今までの糖尿病生活を繰り返さないためにはどうすればいいのだろうか。

論理的に担保する方法はあるのだろうか?



いくら考えても結論が出ない。
とは言っても、毎日腹が空くし何か食べなければならない。
ああ、甘酢の肉団子が食べたい。
なぜその料理を食べたいのだろうか?
この心は誰がコントロールしているのだろうか?







お店から作られた食事を買ってきて食べるとこの面倒な問題は解決する。

文句があるならばお店を変えればいいのである。


そして商品化された食事は災厄招く。
炭水化物は毒ではない、魅力的すぎるから食事を「生命を取り込む物」から「企業の収益のための物」へと変えたのである。




しかし、難しい。
環境に対して私細胞もマイクロバイオームも姿を変える。
食事選びは身体全体の「小さな生命」たちの綱引きなのだ。
生活習慣病は、その綱引きの影響が「どこに出るかの問題」である。


美味しさ、きれいさというのは誰がどこで決めているのだろうか?
どんなに汚くても、危険だと理性に言われても人はセックスをする。
理性や教育ではない何かが決めているのだ。

「タデ食う虫も好き好き」というが正確には、身体というコロニーの中にいて、私に「タデ食わせている虫」がいるのである。


「腸内細菌を制御する」などという妄言は、自分という意識が主人であると考えたいからである。
「意識」というものが身体や社会をコントロールしているという仮説ではどうにも説明ができない。
そして、生活習慣病に向き合っていけない。
辛い死に方をする。



母が、年をとっていくにつれて、皿が汚いままに片付けられるようになっていった。
母の家で食事した時、皿やコップが汚いことがあったりする。


調理をした時も同じことが起こる。

年をとっていくと若い頃のように料理を作れなくなる。
これは仕方がないことである。


父と一緒に食事をすると色々と考えさせられる。
食事中に歯に挟まった食べかすをほじるし、くしゃみはするし、余ったおかずを自分の口に入れた箸で僕の皿に移す。
もし相手が、知らないじいさんではちょっと嫌である。

なぜだろうか?


「家族のキッチン」という概念は深く、複雑である。
共に生きるということはどういうことなのかまだ結論は出ない。
「自分というコロニー」の境界はどこにあるのだろうか。


「好き嫌い、わがまま」「不衛生、汚い」というのはなんなんだろうか。






家族というシェルターの消失という概念はなかなか表現できない。
果たして消失したのか、拡大されたのか、新しく生まれたのかが問題である。

テレビの健康情報の番組を笑うのは簡単だが、それでは「なぜ受け入れるのか」という問題は解決しない。




マイクロバイオームに関して研究所を読みだしたのは2016年の終わりくらいだったろうか。
身体を小さな生命のコロニーと考える仮説である。
様々なことが合理的に説明ができる。
食事を作ること、食べること、排泄すること、セックスすることは顕著なイベントとして考えることができる。

いずれも、自分の内部から突き動かされて行う行為である。
その喜びも苦痛も決して他人には伝えられない。










1213868