「今日の食事が死に方を決める 明日の食事が生き方を決める。」(10) まずは始めてみよう。自分なりの食事作り。

「 今日の食事が死に方を決める 明日の食事が生き方を決める。 」のシリーズはこちら



「幸運な病」の主題は「薬」ではなく、自分で病(生活習慣病)に向き合うことでで健康になろうというものであった。
具体的には「食事」を通じて向き合うのだ。

そしてその食事は、医師や栄養士の「指導」するものではなく「自分自身で見つけなければならない」ものであった。





本を作ったスタッフと話し合ううちに、僕がどんなものを食べているのかという話になった。しかし、うまく伝えられないのである。

テレビやネットに溢れている「レシピ」「健康情報」はいずれもウソ臭く感じた。
料理の写真もみんな七五三の記念写真のようである。

そして「簡単・健康・手軽で安い・馬鹿でも出来た」のオンパレードである。


その本を書いている連中が毎日そんなものを食べているとは思えなかった。(例外もあるが)



毎日の食事はそうでないと感じていた。





そして、「幸運な病のレシピ」を始めることにした。

食事を作るプロセスを動画に撮るのである。youtubeにアップしてこのブログにもう少し細かいことを書いていく。40分を超えることも多い。長いし、煮ているところを早送りしたりダイジェストしたりしないから、誰も見ない(笑)。
これはドキュメンタリーであり、生き方の記録だ。

誰にも真似できないし、真似しても仕方がない。自分なりの生き方を見つける決心をしたときに、見てもらいたい。
こういうバカなことをしている男がいるということは、誰かの何かの助けになると信じている。

そして「医療」に見捨てられ。「医学という権威」を信じることができなった時。自分自身で現実に向きあおうとした時に「自分だけでない」と感じてもらいたい。

僕は「街で一番腕のいい医師」に「失明を宣言」されてから本当に自分自身として生きることができた。愚か者とバカにされながら自分で納得のできる生き方を選んだ。苦しかったし、がむしゃらに勉強した。あの頃の僕に見てもらいたい。


友人たちにも見てもらったが、厳しいご意見が寄せられた。
『うまそうに見えない、汚い、床に落ちたものを拾って入れるな、いつか包丁で手を切りそうだ(切るところが見たい)』。

けど、それが毎日料理を作るということなんだ。






出張に行ったとき以外はほぼ毎日食事を作っている。

食事を「栄養素」と分解して量を測るのではなく、生命を受け取るというふうに考える。
「栄養素の量」ではなく、「自分が何を食べたいのか、そして美味いと感じれるか」を基準にする。
しかし、「嗜好品(炭水化物・酒)はほどほど」にする。

注:セックスも嗜好品に入る(笑)







続けていくうちに何が言いたいのかわかってもらえるようになったきた。
毎日作るのって、偉いねえと言ってくれる人も出てきた(笑)。



もう779回である(笑)。



そして気がついた。

毎日料理を作るというのは料理番組やレシピ情報とは違う。
もっと、不細工で、まずくて、ぎこちなくて、下手くそで、一生懸命で、悲しくて、どこにもないものなのだ。

そしてそのレシピは家族というシェルターの中で育まれてきたものなのだ。
僕は母のそんな姿を見てそだった。
そしてそんな時代はもう過ぎ去って、元には戻れない。


2016年に亡くなった母も、最後の3年間はまともに料理ができなかった。
医師の処方する薬に依存して、苦しんだ。
なくなる少し前には電気釜から炊いたご飯があふれることもあった。
もっと早くから僕がそばにいてやればよかったのだ。
思い出すと涙が止まらない。




そして、「そんな食事」には価値がある。
苦労しても作るだけの価値がある。価値のあるものは苦労しなければ手に入らないと言うことだ。

これは「食事の価値」の物語なのだ。

時代は変わった、しかし、その時代に向き合った食事作りはあるはずだ。僕はそれを見つけたい。


時間がないから認知症になるのも仕方がないのだろうか?
僕は自分の人生をそうは割り切れない。





共働きしなければ生活できないような低賃金の社会はおのずから食事作りを外注化せざるをえなくなる。

そして、食事を作る仕事についているパートのお母さんも低賃金で炭水化物どっさりの(栄養士お墨付きの)弁当を作る。
せいぜいで700円位だろうか。20時の割引で半額になっても利益が出る原価である。

それを、食べざるをえない。

今の子供はスーパーにおかあさんと行って弁当を選ぶのが食事だと思っている。
家族の誰からも文句がこない(栄養士が監修したレシピの)炭水化物料理を作って「料理している」と安心する。
パスタやカレーや「ご飯のおかず料理」である。



「貧困の連鎖」である。




「家庭で料理を素材から作っている時代」と「商品化された食事を選ぶ時代」の「断絶」は思っている以上に大きい。
この断絶こそが生活習慣病の生まれる元だと考えている。
個人の生活から社会が見えるのだ。



人は自分に見えている範囲でしか生きることができない。
母は和裁の内職でいつも家にいて料理を作ってくれた。
僕は、いじめられっ子で、友達が少なくて、いつも台所では母にまとわりついていた。



そんな思い出を伝えたいと思っている。

そんな時代の価値を見つけたのだ。





無論、お金持ちの方々はもっといいものを食べている。
毎回食事に数千円をかけても会社の経費だったり、高い給料からしたら微々たるものである。
とは言っても、自分の好きなものを食べるということになると、炭水化物料理になる。
なにせ、美味しいのである。

家族というシェルターは社会的に成功しても、勝ち組でも、それは一時の幻でしかないということを教えてくれる。
家族というシェルターは貧欲や贅沢を戒める。父母と共に住むということは自分も年取ったらそうなるということを教えてくれる。そして避けようのない死が待っていることに気がつくのである。

これが「宗教」の源流なのだと思っている。

そして今の時代は宗教を失ったのである。



科学は宗教(人の幸せを望むという心)を否定してはならない。




無論、世俗的なドグマを強制する宗教は僕は敵視する。
同じように、患者を見ようとしない医療も敵視する。

マニュアル化された医療はマニュアルを守ることに熱心なあまり患者の幸せを顧みない。
僕はそれを「宗教なき医療」と考えている。

「再生治療」は「宗教なき医療」の典型例である。人の幸福を考えない医療には価値がない。
脊髄損傷を治せない再生治療は「羊頭狗肉」と呼ぶのがづさわしい。







健康格差というと「高度医療」を受けられないために起こるものと定義されているが、それは間違いだ。

毎日の食事にかけるコストが若い時期の災厄を生む。
高度医療が必要な状態にならないことが一番である。









生活習慣病」と一言で済ませてしまっているが、本当の問題は「人生最後の10年問題」である。
若い頃の合併症と言われる災厄はまだ数が少ない。
しかし、80歳を超える頃からのQOLの低下は著しい。

そして今の社会は「隔離の社会」である。
病人や、問題児、犯罪者、平均的でない人、を隔離して見えないところに置くのである。

そして老人も隔離する。
そして年とっていくというのは、必ず自分も通る道である(死ななければであるが)。

母を失い、父と暮らすことで「それ」に気がつけた僕は幸運である。



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レシピ本の例外に関してはこちらをご覧ください。
2018-03-05 幸運な病のレシピ( 347 ) 朝:鳥カツ、砂肝、鮭ソテー(落合風)

2015-11-24 人工透析と糖尿病の類似点

2018-04-25 「今日の食事が死に方を決める 明日の食事が生き方を決める。」(2) レシピ本・ダイエット本ってどうしてあんなに嘘が多いのだろうか? どうして連中は自分でしてもいないことを偉そうに書くのかねえ。




宗教と科学の関係は一筋縄ではいかない。

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

この2冊は僕の愛読書である。同時に母の死というものを通じて、それだけではないことも知った。

人の心は面白い。自分の心と58年付き合っても毎日新しいことが起こる(笑)。



僕は井上ひさし先生の宗教観が大好きだ。
モッキンポット師という現実に生きていた人を通じて彼は神を信じるのである。
それは髭の長い杖持ったおじいいさんではなくて共に悩み苦しむ同じ人間である。

モッキンポット師の後始末 (講談社文庫)

モッキンポット師の後始末 (講談社文庫)


セント・ヴィンセントもよろしく



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