幸運な病のレシピ( 1212 )朝:シシャモ、鱒、肉じゃが(鶏ムネ)、味噌汁(生わかめ)

【 2019/5/1の食事 】

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煮しめを作ろうと思ったのだが、ジャガイモの芽が出てきていたので肉じゃがにした。
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シシャモが悪くなり加減だったので、鱒と一緒に焼いた。
これを一日かけて食べる。

味噌汁は生ワカメが良い。
乾燥わかめは時折使うが、生わかめを買うことが出来たらこちらにする。塩付でもそこそこ美味い。

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父が来たので食事を食べるかと聞いたのだが、まだ腹は減っていないという。

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今日はメーデーである。
少し昔の思い出を聞いた。確かに大昔、組合というものが人々を結びつけていた時代に思いを馳せる。

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少し後に父が来たので一緒に食べた。
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食事作りは難しい。

家庭科の授業で教えているのは包丁の使い方や煮炊き焼き程度までだ。
「素材から食事を作ることの価値」を伝えることもなく、マニュアル通りの手順を教えてハイおしまいである。
僕が伝えたいのは「食事の価値」なんだ。

単純に後片付けや毎日の料理作りのためのメニューの設定や、素材から毎日料理を作り続けようとすると直面する問題は多い。

もっと、大きな問題は、「食事を共にする」ということの意味だ。

かつて、家という「食事を作る装置」が維持されていた時代は、「家」以外には食事を手に入れる方法はなかった。

レシピ本(マニュアル化された家庭科の教科書)など見ると。料理はまるで理科の実験だ。

いくらよんでも、「ご立派な食品成分表付きの弁当」ではいけない理由はわからない。
商品化された食事は美味しいしコストも安い。炭水化物は(毒ではないし)魅力的で抗えない。

しかし僕は「商品化された食事」にこそ問題があると感じている。

私達は長い食事との付き合いの中で、魅力的なものを忌避する文化を持ってきたのだ。
それは宗教という形で、それぞれの「家庭」に球友され、具体的な生活の中に発現して来たものだ。
言語学上のラングとパロールの関係に似ている。

この50年で見事の消え去った構造である。

しかし、その構造は様々な所に痕跡が見える。

そして、今の問題は、新しい構造を構築できるかということである。
しかし、難しい。

問題は、ひとりひとりの「身体というコロニー」の必要とするものは違うということだ。

これが「好き嫌いとどう向き合うか問題」である。
例えば、セックスを共にすべきパートナーが自分と異なった性的な指向を持っていたらどうするかということである。
パートナーの作る食事がどうしても口に合わなかったらどうすれば良いのだろうか?
実際本当に食べれなくて食べない場合と、「相手をコントロールするために食べない場合(主従関係の確認)」、いずれも結果は同じである。
これは恐ろしいことなのだ。
食事やセックスは拒否することや無理強いすることで互いの関係を確認する。
そしてコミュニティの中で有利な立場に経とうとするのだ。
欲望という「財」は市場に開かれていないコミュニティにおいては関係性破綻で幕を閉じる。

有名なアイドルの裁判記録の中に、「どんなに疲れていてもセックスを幼駒有されたら、すること」という取り決めがあり、これがDVに当たるか物議を醸した。
実に面白い。
セックスのパートナー間での「承諾と拒否」は大変な問題となる。自分の生活を顧みてもわかる。

子供が成人したらポコンと離婚する夫婦も多い。

食事もセックスも、そして老後の生活も「家庭」から外注化されたならば、家庭には意味がない。

食事もセックスも実に個人的なものである。そして、欲望を「制約」するのは困難だ。
「身体というコロニー」に外部から「何か=マイクロバイオーム+代謝物」を取り込むという意味で「食事とセックス」はよく似ている。
その一にチューニングされた「安全な」欲望の満足こそが重要なのだ。
安全とマンソクのトレードオフも底には存在するだろう。


まあ、面倒なことはさておいて、一緒に飯でも食べようよ。






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