『幸運な病のスタディ』(9) デブは自己管理能力がないわけではない 肥満とその対策(3)

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なぜ僕らは、デブを自分の責任だと感じるのだろうか?
他の病気は「可愛そう」と思うのだが、肥満に対しては「自分(お前)が悪い」「自業自得」と思いがちである。

しかし、人は代謝傾向が違い、年取っていけば今までついていなかったお腹に脂肪も貯まる。
決して個人の自己責任ではない。



しかし、医者は「腹八分目」と決まりきったことを言う。
僕は太っていた頃いくら食べてもお腹いっぱいにならなかった。
つまり、腹八分目も来ないのだ。
それが分かるだろうか?

生活習慣病に対しては生活自身を改善する「具体的な方法」を提案しなければ意味がない。
しかし、それは医師には無理というものである。
「腹八分目を守れ」などと言っても患者の心は離れていくばかりである。

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『標準的な人』という人はいるだろうか?
DNAドグマは「人体が設計図に従って出来上がっている」と仮説した。
そしてその仮説は今もテストに合格している(おそらく正しいだろう)。
しかし、その設計図という概念は、家や機械のような特定の目的のための機能を実現するものではない。
あくまで、細胞の中で「タンパク質」をコーディングしているだけである。

どんな時にそのタンパク質を作り放出するのか?
あるタイミングで特定のタンパク質が漂着した時に何をするのかという運用のマニュアルはそれ以外の部分にある。
無論ノンコーディングDNAにも書き込まれて入るだろう。

しかし、それ以上に重要なのはその瞬間の代謝のあり方である。
つまり、化学反応を行う主役が(タンパク質=酵素)どう複雑な反応系を生むかということであろう。

そしてそれは、一瞬たりとも同じものはない。






エビデンスとは、標準的な人を想定して、効果を数値化する。
現代の医学は「標準的な人間」とそれ以外の「病人」を作り出すところから始まっている。




ナラティブは一人一人が違うことを重視する。
人の心はあまりに違いすぎるから、同じ処方箋は効果がないのである。




娘がインフルエンザ薬で異常行動を起こした時に医師は信じようとしなかった。
私の言葉ではなく、医学の立脚しているエビデンス(副作用はないという製薬会社の言葉)を信じたのである。
まるで私は嘘つき扱いであった。





僕にSMGBを勧めてくれた友人の医師と話したときのことをよく思い出す。
彼は、僕の言葉を聞き、共に考えてくれた、そして、もし自分が僕だったら行ったであろう事を進めてくれた。
彼のおかげヤケッパチにならないで生きてこれた。
感謝してしきれない。




と同時に、エビデンスの影に隠れる医者を責めたいとは思わない。彼らも病人のためになろうと思い医師を目指したのだろう。しかし、患者は言うことを聞かない、やがて辛い死を迎える。決して平穏な心ではいられないだろう。

僕は「白旗を上げればいい」と思う。
生活習慣病は決して「医師の持つ権威」でも、「患者の意思」でもどうにもならない災厄である。
治ることのない心身の変化である。
どう生きれば良いか、それぞれの立場で考えて行きたい。

例え、どんな健康な医師も80歳になった時、身体は衰える。
その時どんなふうに扱われたいか考えてみると良い。
そこにこそ解決の道がある。


アドラーは言う、「他人、そして世界」は変えられない、変えることが出来るのは「自分自身」だけである。

医師の感情: 「平静の心」がゆれるとき

医師の感情: 「平静の心」がゆれるとき





萩原先生は僕が最初に出会った糖尿病の専門医です。ご自身もI型の患者で僕にもっと気楽に行きなさいと感じさせてくれました。すぐには気が付きませんでしたが、先生と出会えたおかげで僕は糖尿病と向き合うことができたと思っています。


(先生が最後に勤務なさっていた病院のページから頂きました。)




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