「細胞の栄養学」(4) 分子矯正医学って駄目だなあ。少し外側は良いけど、傲慢な医者たちの金儲けの道具に過ぎない。

細胞の栄養学 のシリーズはこちら


分子矯正医学というのは、「ライナス・ポーリング」さんがメガビタミン療法から発展させた考え方だと僕は思っている。
身体全体で考えるのではなく、細胞のレベルでのトラブルを見つけようとする試みだと考えている。一時は素晴らしい考え方だと思ったのだが、紛らわしいレトリックの1つでしかないと感じている。




昨今の風潮では、大変多くの本が出版されている。
しかし内容は、クリニックの宣伝だったり、サプリメントの販売促進だったりする。

血液検査をして、一人一人にチューニングしたサプリメントを処方するという。
これは、従来の栄養学が画一的に、あらゆるヒトが何を食べれば良いのかという「誰にでも効く食事」を提唱しているのに対して、細かく一人一人に異なった処方をしている。
一見するといい感じに見える。



しかし、いろいろと考えていくとどうも、気に入らない。





血液検査で、「サプリメントを調合して処方する」という点は、一見「良い」ように見える。
あたかも、一人一人に合った薬を処方されるように見える。
しかし、その根底には、「政治的に正しいヒト」のの存在がある。せいぜいで検査値に対してのさじ加減でしかない。

つまり、検査値が異常(現象)になる原因が1対1の対応になっているのである(複数場合もあるが、あくまでその現症に対しては特定の処方がぞ存在する)。

医者は「処方」が正しいと確信して、もし聞かない場合は患者が悪いということになるのである。

なにせ、医者は「エビデンス(効果がある証拠)」に基づいて処方している。

統計的に、その薬を飲んだグループと飲んでないグループの間で、有意な差があるから「効果がある」と考えるのである。
前提として、薬が「単純な機能を持ったもの」と考えているのである。僕はこれを『エビデンスという嘘』と呼びたい。

統計が威力を発揮するのは、サンプルが均一で有りながら、差がある場合だ。つまり、「失敗の確率」を探るために統計は存在する。

しかし、よーく考えてほしい。処方が効かない場合は『患者』が悪い(特別)のである。
それは運が悪いのか、性格が悪いのか、大学の教授にもはじめての例のように繊細で複雑なのか?まるで素晴らしいことのように言われる。
まるで、効かないのは自分が特別で立派なのだと患者は思うのだ(笑)。インプラントしたネズミを考えれば分かる。


娘が、インフルエンザの薬で異常行動をとった時の事を考えれば分かる。
翌日、処方した医師のところに行って話したら、医師は「この薬に副作用はないはずなのだがなあ」とツブヤキながら、診断した。危うく切れるところだった。
100%安全な薬などはないことくらいは当たり前だ。そんなものを望んでいるわけではない。災厄が起こった時に、その原因を探さねばなるまい。僕の商売(ソフトウエアのエンジニア)ではどんな現象が起こっても(それが僕に起因しなくとも)回避しなければ話にならないのである。自分に責任があるかないかではない。患者にトラブルが発生しているかどうかである。





「私」は統計の中の一つの数字ではない。




「やっぱ医者はこうしないと儲からんよね」ということである。





一人一人が凄まじく違うということは、血液検査などでは判定できない多様性があるということである。
たとえAIがいかに発展しても、二人として同じ人間も同じ状況も再現されないのが人生の広告と変わる瞬間である。

ある数値がある値であったとしても、何が影響してそうなったかは判断できない。
まして、「ヒトのDNAゲノム」以外のマイクロバイオームたちも多くのタンパク質を始めとするメッセンジャーを出すこともある。
空気中には「スギ花粉」も飛んでいる。それがどんな風に影響しているかなどということが類型化できるはずがない。
常に環境は変わりながら、生命に影響を与え、生命は環境を変える。

僕は、「家族の食事」こそが解決はないと思っている。


どこが素晴らしいかと言うと、家族の食事は「食べる人がわがまま」をできるからである。
また、買い食いして怒られることを考えても分かるように「食事を律する」ものでもあった。




政治的に正しい栄養学』はわがままを許さない。
給食で昼休みまで残された子供が可愛そうだった。
子供のためだと言って、食べたくないと言っている子供に無理やり食べさせる「家庭の食事」は、「政治的に正しい食事」と何も変わりがない。




生命はみな違う。


しかし、細胞のレベルでは、同じプロトコルに従って動いている。
ミクロの生命のレベルでは「共通のプロトコル」に従いながら、それぞれの現実に直面し、毎瞬間変わっていく。

「ブタ・牛のインスリン」が「ヒトの細胞」に効果を与えることを考えればいい。

地球上のすべての生命は「タンパク質という共通の言葉・ブドウ糖という共通の通過」そして脂質は私(コロニー)を世界から切り離し、結びつける。

なんと素晴らしい。





しかし、医学は誰にでも効く薬を処方する。
事実、昨今の「タンパク質のブロッカー」は特定の機能を殺す。
多くの場合、「細胞の受容体」を潰すわけだから非常に効果がある。
しかし、そのタンパク質が身体のどこでどう使われているかなどということは分かるわけがない。
多くの副作用は、「浅はかな医学」が自信満々に設計したタンパク質のブロッカーによって引き起こされる。


また、1つの病状に1つのタンパク質のブロッカーを対応させるとした時に、年取っていくと薬の数は猛烈に増える。
多剤併用(ポリファーマシー)はまさに患者が訴える症状の数だけ処方するから起こるのである。









喜んで食べてもらえるように手を尽くし、家族独自の味付けをして、毎日とりどりの食事と笑顔を見る。
その家族の食事は、「何代も続いてきた遺伝子のチェーン」と「その瞬間一緒に住んでいるマイクロバイオーム環境」に対しての関数なのだ。

そんな食卓が生活習慣病を遠ざける。


しかし、私達はその伝統を失った。
どうすれば、見つけられるのだろうか?





これは、僕の長い旅の記録である。



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「細胞レベルで栄養を考えなければならない」と言う考え方は『運動』の意味をオプション的なものにする。
これは賛成である。細胞は体液に浮かぶ孤島である。そして、体液は均一になろうとする。お腹の脂肪細胞は自分がお腹の一部となっていることを知らない。地球が銀河系の一番端っこの辺境の星であることはちょっと自尊心が落ち込む。ああ、銀河系の中心に行きてえなあ。吉幾三も歌っている。
運動をすると、様々な代謝が起こり体液の状態が変わる。それぞれの活動している組織の細胞は、激しく代謝を始めて細胞から乳酸を分泌する。血液の中で乳酸の濃度は上がる。そして体液は均一になろうとする。ここが重要である。腹筋運動をしてもお腹の脂肪が落ちるわけではない。体全体の細胞が、変化した体液に従って何らかの代謝を行う。その結果、どこかの細胞は脂肪が多く放出されるのである。




ちなみに、「幸運な病」ではポーリング博士が患者のために今までの実績をなげうって新しい考え方を提唱した勇気をたたえている。当時、博士に対してのバッシングはかなり激しかったようである。既存の医学の枠組みに対して異論を唱えていたのだ。(「幸運な病(P56)」)