「権威の根源」と「信念」、何かを信じること、「二重の奴隷」の意味。

このお話は、僕が医師に失明を宣告され、治療を拒否していま生きている過程で見つけた寓話であります。
もし明日、失明したら僕は最高の愚か者でしょう。
いつもそんな事を考えながら生きています。



私達は生きていく時に、なにかを信じなければならないのです。
それを「信念」と呼び、それが誰かの言葉である時「権威」と呼ばれます(多くの人がしたがっている時ですが.....)。

医学であり、宗教であり、DNAドグマであり、カロリー栄養学であり、糖質制限であり、母の料理であるのでしょう。








奴隷(死に向かって生きている)であることは否応のない事実であり、そこから目をそむけることはできません。



死や老いからは逃れることはできないのだから、奴隷であることを自覚することしかできないのです。
その上で、自分として生きることで生の喜びが見つかるのです。
宗教的である。


医師のすすめの通り、眼底治療をしてインスリン治療をすれば不安は消えるのかもしれません。
しかし、それを選ばなかったのです。



福井国体の仕事で今年は「あわら市」に1週間滞在しました。
「魯迅先生」と「藤間先生」の記念館があり、「奴隷」とは何なんだろうかと考えました。

多くの文学で繰り返し論じられる問題です。




生命はいずれ死を迎えます。
その意味で死神の奴隷なのです。
これを第一の奴隷と考えましょう。
その意味で私達「生命というコロニー」は皆「奴隷仲間」です。

そして、死は生が苦しみである時には苦しみからの開放でです。
同様に、生が喜びである時は苦痛です。




生活習慣病は「生」を苦しみに変えるのです。
治療の始まりと終わりのある病は、希望があり、その向こうにかつて生きてきた輝きがあります。
しかし、治療に終わりのない病は身体の部分的な死です。

治療という名の「目に見えない車椅子」は(目に見えないがために)すでにその患者が「部分的な死」を迎えたことを覆い隠すのです。

「身体の部分的な死」を迎えたら、新たな生活を送らねばならないのです。
残念ながら今までどおりの生活は次の死を呼び寄せるのです。

次々と襲いかかる「隠された死」と「良く効く薬」こそが『生活習慣病』の正体なのです。

治療を続ければ、「今まで通りの自分」でいられるのだ、いつまでも若く元気でいられるのだと信じさせます。

それが、二番目の隷属なのです。




8月の終わりに「夜明け前」と言う映画を見ました。

呉秀三先生のドキュメンタリーです。その映画の中で100年前の「精神病治療」をこう語っています。
「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸のほかに、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」

「二重の奴隷」と言う言葉をこのときに感じました。

2型糖尿病という病と言う不幸の他に、この国に生まれたるの不幸をかさぬるものというべし」
しかし、幸運であったことに気が付きました。




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