父母の考古学 傷はいかに癒えていくのか。
考古学というのは、既に持ち主やその使用方法の意図がわからない物から使っていた人々のイメージを探り出すことだ。
母が亡くなって悲しみが少し落ち着いて実家の片付けも一段落してきた。
一旦、僕の家に退避させた「写真」「日記」「遺品」を分類して実家に戻し始めている。
実に様々なものが見つかる。
ぼんやり覚えているものも、初めて見るものもある。
「あの頃苦労かけたんだなあ」「そうだったのか」と思い起こすことしきりある。
農作物を入れるバケット5つ分に余る分量になった。
実の様々なものが出てくる。
写真や、昔の会報、社内報、振込明細、借用書。
遺品を眺めていることで悲しみがだんだん遠くに行っていくことがわかる。
父は幾度も「いつ頃、'墓'ができるのか」と聞く。早く入れてしまいたいという。
最近は、寝ている時間が少なくなって、色々と片付けたりしている。元気が出てきているのだろう。
話をしていても、以前は少し間があいたりした最近はそれがない。
「あと十年生きる」と言う。孫(今年高校)と一緒に酒を飲むことが望みだ。
毎日のように「人間って簡単に死ぬものかなあ」と繰り返していたが、最近は「死んだのは仕方がない」というようになってきている。そんな父を見ていると、僕もそうなのだろうかと感じる。
母は亡くなって僕に写経を残してくれた。
僕は新発田(新潟)に帰ってきてから、職もなく、人生に希望もなく色々と就職を試みた。
結局は、親父が50年勤めることになる「新潟金属」という会社に入社した。
新発田という町は、戦後の復興期、下越地域の農家の労働力をバックボーン幾つかの大きな企業がこのエリアの復興を支えた。
「大平洋ニッケル」という社名は「大平洋金属」とかわり、第1期の会社の再編成があった。
新発田工場は港湾近くに移転、当初は高炉機能を持たせる予定だったようなのだが八戸に高炉機能を一括した。
ステンレスの加工工場となっていくのである。
昭和の時代を映し出している。
小さい頃、溶鉱炉からの蒸気に映る赤色が恐さを感じさせた。
この会報の写真は初めて見た。
労働争議の時期に父は経営側、僕は労組側で争議を戦う。
僕は、この時代に何を得たのだろうか。
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