「COVERS」(7)卵焼き
フェースブックにはカバー写真を設定することが出来る。皆それぞれに気に入った写真をアップロードしてコメントを書く。僕は厨房仕事に欠かせない道具をカバーすることにした。COVERSというのは僕の大好きな音楽家のCDだ。有名な曲の「替え歌」が演奏されている。料理のレシピというのは大昔から家庭でそれぞれに奏でられている音楽のように思う。誰かに習い、毎日奏でる。皆同じ様に見えながら二つとして同じものはない。私達一人一人が違うように。「商品化された食事」は自分らしさを殺す。自分らしく生きるために僕は今日も道具たちと厨房に立ち、料理を作る。このシリーズはこちら。
今年成人式の娘が生まれた年に会社は倒産させられ、労働争議の組合の委員長だった僕は最後まで社宅に残っていた。
経営者の口約束を信じて半年後に転居するつもりだったものが即刻出て行けと紙切れを渡され居座ったら300万円の損害賠償の訴訟を起こされた、ハラワタ煮え繰り返りながら、きっちり期日までいてアパートを探し移った。
組合の労働争議を指導した僕を雇うような会社は地元にはなかった。
人生最高の日 あきらめてはいけない事を知った日 - 日々の糧としての写真 A LIFE LIVED IN FEAR IS A LIFE HALF LIVED
引っ越したアパートのそばに寿司屋さんが一軒あった。
住宅街の中にぽつんとあったのだが、ある日ふと入ってみて驚いた。
旨いのである。コハダ、アナゴといった素材より手数の技が映えるネタが絶品だった(そういうお店は美味しい)。
太巻きのデンブも自分で煮ていた(あれって白身魚から作るのだということを初めて知った)。
ひときわ素晴らしかったのがだし巻き卵である。10個の卵にお玉いっぱいのダシ汁(顆粒ダシ、これ以来ダシの呪縛から抜け出せた)を加え、油をたっぷりと巻き込みながら返していくのである。まだお客さんの少ない時に行ってビーをを飲みながらコハダとアナゴを頼み、その日のだし巻き卵を作るところを眺めるのが嬉しかった。お土産に太巻きを買って帰るのだが、あのお店の太巻きに比類する味に出会ったことはない。
この卵焼き器は昔に買ったものなのだが、うまく作れなくて使っていなかった。
親父さんの手順を習い、作ってみたらなんとか形だけは真似ることができるようになったのだが、強火では作れない(親父さんは強い火力で上下させながら巧みに巻き込んでいた)。
いつも懐かしく思い出す。
忙しくなりあまり行くこともなくなり、数年経った頃、思いもよらない方から癌で亡くなったとお聞きした。
思い出の味というのは出来上がるのは一瞬である。お店の跡には小綺麗な家が建っている。
9月に社宅の住人はみんな引っ越すのに僕がいるために、社宅が売れないという名目での300万円の損害賠償だった。
争議の交渉で本社の社宅に住んでいる社員と同じ扱いをしてもらうと話していたのに文書にしていなかた僕が悪い。
さすがにそこまで頭が回らなかった。勉強になった。
悪党は信じてはならない。悪党かどうかは裏切られなければ分からない。
そして、会社をやめるその日に、総務部長から2ヶ月後に出て行けという紙切れをよこされたのだ。
彼にどういうことかと聞いたのだが彼は悲しそうにうつむくだけだった(彼も一月後には社員でなくなるのだから怒ったところで仕方がない)。
紙切れには家賃の振込先が書かれていた。「来年3月末までいる。家賃を振り込まないから欲しかったら取りに来い」と言い捨てて会社の事務所を後にした。1億3千万円の退職金金割り増しのうち僕が受け取ったのは60万円だった。結局(東京まで行って)会社側の弁護士と話し合い、3月末で退去するという約束で示談となった(新発田の裁判所で文書を作った)。
その期間(退社後)の家賃は払っていない。儲けた(笑)。
部長職以上は倒産翌日からみんな就職があった。
20人ほどの縮小された工場に再雇用された社員は最低の待遇で雇われた。
1年経っても再就職先のない社員も多かった。僕に色々と教えてくれた現場の親方は食っていけなくて寸借詐欺をしてどこかに行った。
結構田んぼを持っていた人だった。まだ小さい子供と奥さんは離婚して先に消えた事は聞いていた。
世界は平等ではない。ずるい奴らはみんな仲良くずるい。うまく立ち回れない人は誰にも相手にされない。あの頃の事を考えると腹が立って健康に悪い。
僕は東京の友人からソフトの仕事をもらいはじめていた。
ネットの黎明期だった。
メールで納品できるしサーバーの仕事は新潟からでもできるようになってき始めていた。
僕は本当に運がいい。
組合員の仲間だった連中の中には今でも僕を悪くいう輩がいる。
友人でいてくれている人もいる。
世の中味方半分敵半分と言うが僕には敵の方が多い(笑)。