父と暮らす。「ひるね父」の物語

人はいつか深い喪失に出会い、やがて回復する。
その道程は長く、2つとして同じものはない。
回復した後で見える世界はかつてとは決定的に違う。
そしてその世界も、いつか喪失を迎える。



父は毎日眠る。
昼も夜も眠る、眠いから眠るのだという。
母は、「眠り病」じゃないかと心配して、病院に連れて行こうとしたものだ。


朝4時位にポットにお茶を持っていくと起きていることがある。
一回小便に起きるのだ。
朝は目が覚めたら来る。
8時に来ることもあれば、10時を回ることもある。
食事を終わって帰るとまた眠る。
それでも掃除に行くとすぐに反応するので、熟睡ではない。
いびきが聞こえても襖を開けると起きている感じがする、
声をかければ、返事が聞こえる。
いつか、声をかけても返事が帰ってこない日が来ると思うと涙が溢れる。

昼は、僕が家に居ないことが多いので、籠に入れておいておく。
持っていったときに、一声かけると、「ありがとう、起きたら食べる」と返事が聞こえる。

寝てばっかりなのに腹は空くからなあと恥ずかしそうにいう。

夢の中で、母と会っているのだろう。
幼き頃の団欒を見ているのだろう。
特攻隊の友にであっているのだろう。




父は、18の頃、特攻隊に志願して、命を捨てる寸前だった。
娘や息子と同じ年の頃である。
子どもをそんな風にしか考えることが出来ないようにする社会を僕は憎む。
そんな社会で「得」をした奴らは居る。そして今も世界の各所で同じことが行われている。

18歳の頃の父を思い、憤慨する僕は57歳である。何とも、不思議だ。






16時位に起きて、1時間散歩する。
最近はもっと遅くに初めて遅くに帰ってくる。


家に帰ると、夕食のためにうちに来る。
「いつもありがとう」と父は言う。
「俺が食べるものを作っているだけだから、そんなことは言わないで良いのです」と言うが、「美味しい美味しいと繰り返す。

今日、母が亡くなって初めての言葉を聞いた。
父は、「俺は幸せものだ」と初めていった。
ちょっと言葉が出なかった。

父は回復している。
多分僕も回復している。

父が帰った後で、涙が止まらなかった。

妻を失い、友との音信もなく、多くのことを忘れてしまっている。
毎日は同じように繰り返されるが、夕食の後で、実家に戻る時、「今日もいい日だった」とつぶやく。
明日の朝会おうねと言うと、「明日もよろしくお願いしますよ」という。



父が50年勤めた鉄工所の跡地は新発田でカルチャセンターと呼ばれるグラウンドと体育館の施設になっている。
片道、歩いて20−30分の距離である。
2階にグラウンドを見渡せる喫茶店がある。そこで、コーヒーを飲んで帰ってくという。
時々小瓶のビールを飲むという。

毎日、今日の散歩はどこでしたかと聞くと嬉しそうに「疲れてダメだ」と言う。
4つのコースが有って、東西南北に伸びているのだが散歩はカルチャに限るという。

キチンと、夕暮れのちょっと前に食事を始める。
季節によって時間は違うがおおよそ1時間である。
一緒に飲む時は、僕のほうがあとになるが、飲まない時は、途中から片付けを字始める、

少しだけ多めに作り、小さな皿に入れてお土産にする。

夜中の一杯の時の「つまみ」を入れて持っていく。
眉をひそめる人も多いだろうが、止めろという気はない。
たとえ止めと言っても、そこかで酒を買ってきて、缶詰つまみに飲むだろう。
それならば、十分なタンパク質を用意した方がいい。父は健康で、元気だ。

23時位に一回起きて少しのお酒と一緒に食べてまた眠るのだ。





ご飯は80g以下にしてある。以前は、もっと多く食べたいと行っていたが、最近は満足してくれている。年寄りほどお肉や魚を食べなければならない。


今日は「もつ」と「砂肝」の味噌仕立てニラスープだった。





父は、ケセラセラをいつの間にか歌わなくなっている。


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