家族の肖像、食事は給油ではない。ヒトは関係性の中で生きる。

来月から遠くで暮らす息子がピザを作った。強力粉をイースト菌と合わせて発行させる。
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細々とした具材を作り、載せ、焼いた。
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北のチーズとじゃがいものピザから南のオリーブオイルとトマトのピザまで沢山の種類を焼いた。
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7−8年前は一緒に作ったが、今夜は彼一人で作った。
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こうして作った食事には価値がある。
18年一緒に暮らした時間が練り込まれている。
お店でポンと買って食べる「商品化された食事」にない物だ。
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父は既に寝ていたので4人で食べた。



家族皆それぞれに変わり、気がつけば知らない顔になっている。相手からしてもそうなろう。
何年か先にまた出会った時はどんなピザを焼いてくれるだろうか。その時は(まだ見たことのない彼が愛する)誰かと共にここで出会えるのだろうか。息災であろうか。
 
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いずれ僕も一人となり、自分で食事も作れなくなる。年に数回会いに来てくれる子供の話を聞きながら何を思うのだろうか。そんな話をすると妻はやっぱり私が先に死ぬのねと嬉しそうに笑う。
「ヒトは孤独の中に死ぬ」それは仕方がないことだ。孤独の中に生まれて、ほんの僅かな瞬間、少しだけの喜びに生きる。もう半分を超えた。
 
「管=点滴」につながれて、何十種類かの薬もられて、体切り刻まれ、苦しみながら生きないで済むための食事を見つけたい。母は「ころり観音」にお参りに行きたがっていた。
毎日、自分で素材から作る「生命に溢れた食事」にはピンピンコロリのご利益がある。
 

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血糖値は予想通りに上がっている(笑)。検査値と将来の災厄には因果関係はない。本質的な問題も見ないで、相関関係を恐れるのは愚かな単純思考だ。「商品=利益を生むための道具」としての商品は「ヒトというコロニー」を潤滑に機能させなくなる。
そして「家族というコロニー」も破壊する。お店でポンと買った食事が語る思い出はどんなものだろうか。
 
 
炭水化物は毒ではない。魅力的すぎるから食卓から「生命=食品成分表が分析していない(素材の細胞内外)代謝物」を押し出してしまうのだ。


乾燥と精製を通り抜けた炭水化物は「食物のミイラ」だ。ミイラをを水で戻しても生命には戻らない。
しかし、そんな食事は「身体というコロニーを構成している細胞」を狂喜乱舞させる。そして本来の役割を見失わせる。それが「災厄」なのだ。
満腹な栄養失調は「身体というコロニー」を少しずつ壊す。

覚せい剤、ドラッグ、セーフティでないセックス、炭水化物」みな美味しいから厄介なのだ。
そして「貪欲」を禁止して私達を守っていた「家族シェルター(宗教という規範)」が失われたのは社会の問題であり、個人の責任に帰すべきものではない。
医学は「医者という専門家」が商売で小銭稼ぐための手段である。自分の命は自分で守らなければならない。


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