「他者を理解するということ」(2) 共に生きて共に死ぬこと

いつの頃から、子供の残したものを食べなくなっただろうか。

「大阪豆ご飯」という僕の大好きなコミックに隣のテーブルに座った(全く知らない)ヒトの食べ残しを食べて怒られる話が出てくる。

食事は、感染の大きなルートである。

ハグやキスやセックスも同じだ。

料理を作るときに極端(意味のないレベル)までに殺菌を考えるのはあまり好きであhない。






汲み取り便所の頃は、ハエが排泄物と食卓を行き来していた。

家族はより密に感染を共有していた。

結核や梅毒などのような「災厄」をうむ感染症ではない細菌の役割はもっと研究されるべきだろう。

地域は同じように感染症で生命を共有している。

花粉症と感染症は類似点が多い。

敵を自分の一部と考えると理解できることも多い。

敵と味方の定義は利益が共通か否かである。




「うんこ」の臭いをくさいと思うのは教育の結果だろうか?

東京で水洗トイレで死活を始めた頃、帰郷した時の汲み取りトイレが嫌だった。

実家が浄化槽トイレになった時嬉しかった。

田んぼのそばにあった「肥タゴ」を見た世代は僕らが最後だろう。

「カッポン組合」というヒトが天秤にオケを吊るして「うんこ」を運んでいたのを見たことがある世代は僕らが最後だろう。

バキュームカーは今でも残っている。

最初に住んだ東京のアパートは2階に汲み取りトイレがあった。

高層ビルは水洗トイレがなければ存在しなかったはずだ。お城の天守閣のトイレはどうなっていたのだろうか?研究している建築家はいるだろうか。





多くの生命では、寄生虫が行動を制御するということが確認されている。

ヒトも同じように寄生虫に行動を支配されていると考えることは納得がいく。

昨今のDNA解析技術は「寄生虫」どころか「マイクロバイオーム」が「生命というコロニー」に満ちていると知らせている。







父の食事を作るときは必ず味見する。

先日、父が使っている箸で自分の皿のものを僕の皿に移した。
食堂で相席した知らない爺さんにされたら気持ち悪い。
綺麗なお姉さんならばウエルカムかもしれない。







家族という「マイクロバイオームの共有」と感染症の違いは無い。

知らない相手とセックスができるのはマイクロバイオームに操作されている証拠である。

不倫をコミュニティが糾弾する(石でうちころしたりする)のは感染症への防御である。

コミュニティレベルで行われるということは、コミュニティの中でのセックスは容認されている証拠である。


私の死は家族というコミュニティにおいては悲劇だが、マイクロバイオームにおいては単なる引越しでしか無い。



コロニーは構成する生命の活動で変わり、周りの環境も変わり、最適な状態に作り直される必要がある。それが「死」である。

マイクロバイオームの共有は、大きな他者の理解の方法である。

他者は、共に人生を生きない。
家族は、共に人生を生きる。

マイクロバイオームにとってはそんなことはどうでもいい。

私たちは、父と母からの私細胞として家族というマイクロバイオームの住処に育ち、死んでいた。
しかし今は「衛生的な病院で」一人孤独の中で死ぬ。
そして隔離されたまま焼かれる。


この世界で一番美しいのは鳥葬だと誰かが言っていた。






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