僕のマイクロバイオーム論(22) ウイルスのホストに対しての「見えないプラスの役割」はあるのだろうか?無いのだろうか?

これまでのあらすじ:
マイクロバイオームの研究は、1つの生命だと思われている生き物が、実は「2つの全く異なった起源のDNAゲノム」から成り立っているということを明らかにしている。
一つは受精卵に起因する「私細胞」から分化した細胞群である。一般的に「私」と考える個体はこの細胞群を指している。これらの細胞群の特徴は、身体というコロニー以外では存在できないという点である。
もう一つの起源は、「私細胞以外のDNAゲノム」に起因する小さな生命である(これをマイクロバイオームと呼ぼう)。

この2系統の生命たちは互いに影響を与え合いながら存在している。そしてその(マイクロバイオームの)組み合わせは2つとして同じものはない。


また、マイクロバイオーム同士の「身体というコロニーを超えた交流」も盛んだ。マイクロバイオームの交流での移動のことを感染症と呼ぶ。

陸上で生息する生物はマイクロバイオームの交流をするために様々な仕組みを持つ。人の宗教・文化は逆説的であるがこの仕組みをブロックするものである。ホストの身体という環境を利用して、マイクロバイオームは無制限に増え続けようとする。マイクロバイオームにとって、ホストは単なる住居でしかない。

しかし、ヒトという住居はスパンの長い記憶を利用して、「神話、宗教、家族、医療」を生み出した。それらの装置はある種のマイクロバイオームを殺すことに成功した。しかし、『自然は真空を嫌う』あるマイクロバイオームを排除すればそこには別なマイクロバイオームが住み込むことになる。
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マイクロバイオームの世界――あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち

マイクロバイオームの世界――あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち

ワクチンの事は昔から気になっていた。
子供がインフルエンザの治療薬で異常行動を起こした体験以降どうも医者の態度には疑問があった。

2015年の眼科での体験と自己血糖測定との出会いが大きく僕の考え方を変えた。


マイクロバイオームの研究が、どうやら決定打になりそうな気がしてきた。

予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える (光文社新書)

予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える (光文社新書)

先日「予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える 」岩田 健太郎著 を読んだ。
この人のこと、僕はなかなか好きなのだがやっぱ、医療関係者からの視点だと感じた。


ウイルスは様々な病気を引き起こすからワクチンで根絶するべきだ。
皆で受ければウイルスはいなくなる。(この事は言っていなかったかもしれないので、後で調べたい。この本の後に「ワクチンは怖くない」戸言う本を出しているのだが、そこでは個人が癌になるか副作用が出るか、無事防げるかの3択であるという論調に変わっていると思う。この本に関しては後日詳しく書きたい。残念な本であった。)

ワクチンは「病気を防ぐのに効果がある」というエビデンスがある。

こんな事が書かれているのである。
なるほどである。それなりに納得できる。



帯状庖疹でずいぶん苦しんだ。
発症が疑われたら、すぐにウイルスを殺す(増やさない)薬を打てばいいと言われた。
帯状庖疹の本を買ったら、ものすごい事例のオンパレードである。
しかし、その内容を読んだらお寒い限りである。

神経系の中に水痘のウイルスが潜んでいる。
免疫力が弱まると発症して、強まると消えるそうだ。

僕は体の中は無菌だという言葉を信じていたから、え、そうなのとびっくりした。

しかし、高齢者の3人に1人は発症するという。母もずいぶん苦しんだ。









その後であろうか、マイクロバイオームの関連書を読んだ。
今人類は、自分の体の中にいるピロリ菌を世界中で殺しまくっている。
胃がんは減っているが、食道がんが増えているという。

つまりピロリ菌が食道がんから私達を守っていたということだ(ピロリ菌はそうは思っていないだろうが,,,,,,)。



ウイルスのマイナスの効果を私達は「感染症パンデミック」と読んでそちらばかりみている。
しかし、目に見えないプラスの効果があるのではないのか?
少なくともエビデンス重視の医学には無いことを証明できないのである。



多くのワクチン嫌いな人はウイルスと自分自身は共存していると考えている。まるで大事な友を殺されるような気がしてワクチンを嫌う。

僕は、ホストはウイルス(マイクロバイオーム)に支配されていると思っている(笑)。







もう一つは、エビデンスとナラティブの問題である。
帰納と演繹に関しての使い方がどうも腑に落ちなかった。

今の医学は「エビデンス」としてコホート研究(長期間の対比群への投薬を通じた効果の研究)を重視している。
しかしその前提には「均一な対象に対して」ということが前提になる。
しかし、マイクロバイオームの研究は1人として同じ「身体というコロニー」はない。
という事を言っている。

つまり「理想的な人間」などというものは存在しないということである。
医学は「誰にでも効く薬」を理想とする。典型的な「標準人間」を想定しているのだ。

偏差値教育の成れの果てである。
ADHDの子供に薬飲ませる世界である。


ワクチンもそうである。
副作用が出たら、他のみんなはならないのになったお前が悪いという理屈であろう。

なんと政治的に正しい世界観だ。
医学とはそういうものである。
何も不思議なことではないが、憂鬱である。


僕は高橋和巳が大好きである。昔こんな事を書いた。

孤立無援の思想
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「内に省(かえり)みて恥じるところなければ、百万人といえども我ゆかん」と言う有名な言葉が孟子にあるけども、百万人が前に向かって歩き始めているときにも、なおたった一人の者が顔を覆(おお)って泣くという状態もまた起こりうる。
最大多数の最大幸福を意志する政治は当然そうした脱落者を見捨てていく。----そしてこの時、情勢論を基礎にする政治と非情勢論的作業、例えば文学との差があらわに現われてくる。文学はその流派のなかに、抽象的な観念主義や政治主義を含むけれども、その出発点を個別者の感情においているゆえに、たとえそれが老婆の愚痴や少女の感傷であっても、それが個別的な真実性を持つ以上は、可能的な文学の考察対象になる。文学者は百万人の前の隊列の後尾に、何の理由あってかうずくまって泣く者のためにもあえてたち止まるものなのである。
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旺文社/旺文社文庫/エッセイ集/孤立無援の思想/p16
原本にあるルビは()で括って該当語の後に置いた


やっぱり僕のワクチン嫌いは治らなかった。
僕につける薬はなさそうである。

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岩田 健太郎さんに関しては、他の医者よりよっぽどいい(笑)。
食事関係の書物としては「食べ物のことはからだに訊け」という本がある。
最初これを読んでみて、様々な人達(医師や健康関係の本)を一刀両断で気持ちが良かった。

権威的な栄養学に批判的である所はとても気に入っった。
しかし、問題はある。

自分の『身体が求めているものを食べれば良いのだ理論』は大きな落とし穴があるのである。
嗜好品(炭水化物、酒、セックス、ドラッグ)と言ったものに惹かれる場合にどうしたら良いのかがはっきりしていない。

僕の現在の考え方では
マイクロバイオームはホストの身体がどうなろうと関係ない。
そのため嗜好品を求めるのはマイクロバイオームの本来の姿である(ホストが我慢して抗えるものではない)。
しかし、ヒトは長期的な記憶力を持ち言語を生み出す脳を持ったおかげで「神話・宗教族」を保持する装置(家族)を持てた。
その結果様々な忌避(タブー)を作り、家族はヒトというコロニーを『依存』から守ることシェルターとなった。

しかし、生産性の向上・グローバリズムの浸透とシェルターの崩壊は生活習慣病を蔓延させた。


食を個人の問題だと考える人は多い。

しかし、食はアウトソーシングはできないものである。
誰かに変わって生きてもらうことは出来ないように。









しかし、昔に戻ることは出来ない。
結論はどこに在るのだろうか?



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