「今日の食事が死に方を決める 明日の食事が生き方を決める。」(8) 「いただきます・ごちそうさま」の消えた食卓 欲望の経済学 厨房仕事は高度な技術だ。

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その頃、もう後戻りする事はできなかった。
「食事の力」を信じるほかなかった。

しかし、25年間の生活の繰り返しではうまくいかないのは見えていた。



自分で納得のいく食事は自分で作るほかない事には気がついていたが、まだ妻に甘えていた。
後片付けは任せていたのである。
時折することもあったが、「汚れが落ちていない、油っぽい、もう一回洗わないとダメだ」と言われては、「お前が神経質なのだ」と逆ギレしていた。

心のどこかで、「厨房仕事」をバカにしていた。
「料理」は厨房仕事の一部でありながら、独立している。ここが厄介なのである。

そして、すべての厨房仕事を僕が行うと宣言をした。その時、(食器洗いに関しての)家族のクレームに逆ギレしないと心に誓ったのである。

と同時に問題があったらその食器を見せててくれと頼んだ。実は老眼であまり汚れがよく見えないのである(笑)。
どこまでの汚れは容認されるかを共通の認識にしなければならなかった。



しかし、食器に汚れが残るという事は、片付けのプロセスに問題があるということである。
それを見つけるのは困難である。そして、その問題点をら出すのはもっと困難である。


2015年10月くらいのことではなかっただろうか。まだ、炭水化物が毒で、高血糖がダメだと考えていた頃である。



「皿を洗い片付ける」これは高度に専門性とスキルの必要な技術なのである。




いつくらいから「厨房仕事」はこんな風(簡単で時給は安い)に扱われるようになったのだろうか。

これを「食事の商品化」と僕は考えている。競争の中で値段(コスト)のやすいものが選ばれるのだ。



シャドウワーク」って嫌な言葉だなと思い始めた。
ウーマンリブとか女性の解放と言われる現象ってどう考えればいいのか?
従来の社会運動としての捉え方では捉えきれないものがあるような気がしてきたのもこの頃からである。



「いただきます・ごちそうさま」が食卓からなぜ消えたのかということも考え始めていた。
したり顔で「躾がなっていない」とか「食事に対しての感謝が足りない」とかいう輩も多いが、まさに専門家の妄言である。
「躾」「感謝」などという「雰囲気言葉」は何も見ていない言葉だ。





お店で弁当を買った時に、「ごちそうさま」ということはない。
お金を払っているからである。

商品化された食事は、「対価」としてお金を払っているから、ごちそうさまと言わないのである。


どういう時に「いただきます・ごちそうさま」というかを考えていくと面白い。

男が女を騙してセックスをした時に「ごちそうさま」である(これは男女が逆でも同性同士でも成立する)。
つまり、セックスは求める側が、求められる側に何らかの対価(素敵なディナー、結婚の約束)を払うべきものであるのだ。
しかし、本来支払う側がそれを払わない場合である。

では、どんな場合に「支払いと受け取りの関係」は成立するのか、何の意味があるのか?これ以外の関係性とどう結びつくのか?

◯食い逃げをする時は「ごちそうさま」といいそうである。
->お金払った時は言わない。


◯お店から買ってきた弁当が、ポンと出されたら「いただきます」とは言わない。


◯作った人がいないところでは「いただきます・ごちそうさま」とは言わない。


◯食事に招かれた時にはその家の主人に「いただきます・ごちそうさま」という。


◯ファーストフード店では言わない(ことが多い)。

◯カウンターの向こうで汗流して作っている人の前では(お金払っていても)いう。


◯お店の人(ウエイトレスとかウエイター)が奥の厨房から持ってきてくれただけ食事は言わない。


◯お店の人が食事の紹介をしてくれたら、思ず言ってしまう。
->もったいつけて偉そうに「自慢げなウンチク」言われたら言いたくない。


◯召使には言わない。ー>給料払っているのだから。


◯ものすごいご馳走作っってくれたら召使でも言う(事もある)。


◯自分が給料を稼いで、パートナーは稼がないで、食事を作っている時には言わない(場合がある)。
->自分は外で働いて大変なんだから気にいるもの作って当たり前だと感じるのだろう。これはセックスにおいても同様である。


もう少し捻りがある。
ヴィンセントの教えてくれたもの 」という映画で、主人公が皆で食事をする場面で「お祈りとかしないのか」と問われ、一旦は祈りの言葉を口に出そうとして止めるシーンが印象的である。


「いただきます・ごちそうさま」という言葉は、自分たちが共通の価値の元にいるという宣言なのだ。


語源の本で「Company 企業」は同じ釜(com=共通)の飯(pany=パン)を食うという意味だと聞いたことがある。




食事には力がある。かつて食事を取り分けるのは「主人」の特権であった。
そして、ともに食事をし、そのコミュニティの価値を確認しあったのだ。


今は、人を食事に呼ぶことはない。
レストランで、お金払って美味しいもの食べるのだ(それも一つの価値の共有ではある、そして悪くない)
お店に行って(弁当売り場で)食事(弁当やお惣菜)を選ぶ。



子供が一緒に食事をしないと嘆く親は多い。
我が家もそうである。

妻は、僕と父の一回食事をして、夜遅く息子ともう一回食を付き合う。



「僕と父と妻のコミュニティ(共通の価値)」と「子供と母のコミュニティ(共通の価値)」を観察することができる。
生まれ育った家庭(父親が支配者)は自分(子供自身)の未来を保証してくれない。
支配者に従ったところで見返りはないのである。遺産の相続権は法律で決められているし、既にその時には父親はいない。
母と子の共通の価値(合言葉)は「あんなロクデナシにはなるな」である(笑)。


学校の偏差値が子供の未来を決める世の中である。
偏差値が象徴する世の中に忠誠を誓うのは当然である。まさに忖度の時代である。



「家業を持っていた時代」と「グローバル企業が生活に入り込んでいる今」では「家庭」というが表す「価値」が違ってきている(詳しくはこちら)。
かつて家業があった時代は「家=家業」というコミュニティは人生の未来を保証するものだった。






かつては、努力が人生と結びついていた。
「俺や父のように家業を学んで、お付き合いを絶やさぬようにして年取ったら引退して自分の子供世話してもらえ」という言いつけは守れる。努力すればいいのである。上手くいかなくとも努力したことは評価される。
母は、人生は「あたわり=与えられたもの」だとよく言った。だから努力したのだ。


しかし、今では、そうではない。
「大学に行って勉強して国家公務員資格を取って、競争を勝ち抜いて美人の奥さん貰って豪邸に住め」という言いつけは守れない可能性が大きいい。
守れても、大企業や公務員になっても、「上にはもっと上」がいる。そして、「 上級国民 」という努力では入り込めないメンバークラブである。
そして上の覚えが良くなければ楽はできない。
これこそが忖度なのだ。





いつ転落するかわからない人生は抗鬱剤なしではベッドから起きるのも辛い。
僕は酒である。
炭水化物もその役割を担うことが多い。
まさに依存の時代である。



かつての家業に縛られた「家」のように、自分の居場所がずーっと前から決まっていた時代、それはそれで嫌なものであろう。
解放でありながら、吹きっさらしに裸で放り出されたようなものである。




しかし、まだ希望はある。僕らが直面している問題を明確にして、さらけ出すこと。
自分位見えている問題は自分の物でしかない。多くの人の問題と解決を観察するのがエンジニアである。

解決を見つけるには、白旗を上げ、問題を共有するところから始めるのだ。

まだ希望はある。
子どもは「明日の館」に住んでいるのだ。






もう少し言葉を探そう。
僕に見えている問題は何なんだろうか?
誰かと共有できるのだろうか?


次の本の主題である。






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