再生治療はどこで道を誤ったのか DNAと言うプロトコル

国体の仕事で福井について2晩目である。
多くのことがあり、その事は別に書くことになる。

山中教授がテレビでIPS細胞と再生治療についてのお話をしていた。

素晴らしいミライが待っているが、新しい技術には時間も金もかかるのだそうである。



DNAと言う設計図に基づいて細胞が作られているという神話を素朴に信じていた頃は、このお話にも納得しただろうが、今は納得できない。
どれだけ金と時間を使ったのだろうか?


予算をもっとくださいとうったえていた。
当初始まった頃は、一攫千金を狙った企業が次々と投資して、国も湯水のように予算をつけた。
わざわざテレビで「新しい技術は時間とカネがかかる」などという必要はなかった。

見ていて悲しくなった。
こんな事、テレビで言うようじゃおしまいであろう。



研究者というのは、自分の研究を担保に金借りていると思ったほうがいい。
最後に返せなかったらその地位を、追われるだけである。
まあ、ノーベル賞頂いておけば一人分程度の給料はなんとかなるだろう。
しかし、でかい施設に沢山のスタッフを雇い続けるわけにはいくまい。


もっと基礎研究に徹していればよかったろうになあ。
ここまで広げたら、方向転換は出来まい。

彼はあまりに多くの約束をしてしまった。

そして金が集まって多くの人間の人生をつぎ込んだのである。




10年以上の年月ととんでもない額の金をつぎ込んで、膵臓(糖尿病)や神経細胞(脊椎損傷)を『治す』と信じさせて、結局は「加齢性黄斑部浮腫」の実験的治療に一人1億かかるということがわかっただけである。



困っているだろうなあ。
弱音を吐いているということは、そろそろ詐欺師と言われ始める頃である。




細胞は(多くの単細胞生物やウイルスと同じように)分化を続け、皆異なった姿に変わり、そして環境とともに変わっていく。
一瞬たりとても同じ姿ではないし、一つのコロニー(身体)の中でも同じ細胞は二つとない。

すでに、再生治療は拒絶反応の起こりにくいパーツ作りでしかない。



あたかもネットワークの中に2つと同じデバイスがないようにである。同じメーカーのマシンは沢山あるかもしれないが、一旦起動していろいろな設定をし始めた瞬間から、ネットに一旦接続した瞬間から異なったものとなるのである。



しかし、それぞれに異なったデバイスも外部からの刺激に対しては同じように反応をする。
それがプロトコルに従っているという言葉の意味である。


IPSの考え方は、身体をパーツの集合体と考えている所に問題がある。
確かに、「多能性幹細胞」に適切な刺激を与えれば自分にとって欠損したパーツを作れるかもしれない。
しかしそれは、50年連れ添ったパートナーが死んだ後で、別なパートナー結婚するようなものである。

機能は同じかもしれないが、言葉の端々にと耐えきれないもどかしさを感じるだろう。

50年の時間が刻まれていないパートナーと何を会話するのだ?

多くの医学や生命科学の研究者は生命についての考え方が実にプアなのである。
実に寒々しい。


神話の昔から私達の持っていた生命についての洞察を全く理解していない。
医学は何も解き明かしていなことを理解していない。


失った自分の時間を取り戻すタイムマシンなどないのだ。



憂鬱になる。



父と暮らしていると良く分かる。

「循環して再生する家族」という「入れ物」はすでに無くなってしまった。
自分は年老いていき、子供が自分お位置に入り、循環して再生していく。
そんな中で様々な「プロトコル」を私達は持っていた。
そのプロトコルは、渾然として絡み合い、分解はできないものであった。
当然、失われたものを担う必要があった。

「教育・政治・宗教・介護・料理」と分解して同じ役割をする仕組みを作った。

「人のメンタリティ」というものがパーツの組みあわせだと思ったら大間違いだ。



生命とは何であるか?
死とは何なのか、生とは何なのか、いずれ自分にやってくる問題である。

医者はもっと文学を学んだほうがいい。





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