いつから、ヒトの身体は皆同じ様に出来ていると考えられ始めたのだろうか。 検査値正常の不健康(2)。

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『幸運な病のスタディ』(12) 美味しさの栄養学 細胞の栄養学(2)も御覧ください。




1950年台から「DNAドグマ」と言う考え方が様々な方面からテストされはじめる。
「タンパク質」は、「DNAと言う設計図」を通じて世代をこえて伝えられるという事である。

今の所、反証は見つかっていない。

しかし、「設計図」と言う言葉は大きなミスリードを生んだ。


「設計図」と言う言葉は、工場でできた機械に「規格にあった製品「と」不良品」があるように、生命にも『「正しい生命の姿」と「間違えている姿」がある』という風に考え始めたのだ。
ヒトは同じ設計図から作られているのだから、「正しいヒトの姿」があると考えるのは当然である。

つまりデブは、「不良品」か身体の運転手(意識)がおかしいかであるから、「医学的に治療するべきだ」と思われ始めるのである。


当然、老人も「規格外」なのだから、おとなしく施設に入っていればいいと言う結論になる。老人はセックスしちゃいけないし、性欲があるのは異常だし、同じことを繰り返ししゃべるのは認知症だから薬飲ませておとなしくさせりゃいいと思うのである。自閉症は障害だから社会の片隅で邪魔にならない様に暮せばいい。LGBTQは病気なのだから、治療受けるか、処罰して当然だと言うことになる。排除から過剰包摂に社会は変容してきているのだ。



「ヘレニズム」的である。
ちなみに、この時期の彫刻のペニスが小さいのは「性欲(本能)」を抑える強い知性を備えている事の象徴らしい。おかしいなあ、僕は小さいけどやりたくてたまらんぞ。See, the problem is that God gives men a brain and a penis, and only enough blood to run one at a time.血の気が多いらしい。こちらから。






家でも、自動車でも、設計図通りに作られるのが正常で、それ以外は不良品でリコールの対象になる。

ヒトの身体は理想的な設計図(イデア)に従って作られている。
そしてそれを実演するのはスポーツである。

歴史において何度も繰り返された考え方である。

今はまさに「医療と血液検査によるヘレニズムの時代」である



1970年に大日本肥満者連盟が生まれた。
つまり、デブバッシングはこの時代に端を発するのであろう。

成人病が大きく取り上げられ出すのもこの時代である。アメリカで、マクガバン報告が食事の大切さ(食事によって健康が維持されると考えた)を論じた。「感染症と欠乏症への医学の勝利」の記憶が「政治的に正しい栄養学」を論じ、災厄の道を用意した。



生命の姿は環境との関数である。

違った環境で生きる生命は違った形をしていて構わないのである。

皆、それぞれの形でそれでいいのである。生命の形に正しいも間違いもないのである。





生命はあらゆる環境に生きなければならない。ヒトは「調理」と言う武器で、食物連鎖から独立して、広い環境で生きることが可能となった。
そして、皮膚の内側に細胞という生命の主役を閉じ込めているために、調理から生まれる生命環境に細胞は翻弄される。



設計図と言っても、同じ種(同じDNAを持つ)が同じに生きるわけではない。

未だに、肥満でさえなければ大丈夫と考える風潮は多い。
しかし、誰でももれなく「生活習慣病」になるのでございます(笑)。



筋トレは筋肉組織に負荷をかけているだけである。
そんな事しても、認知症は避けられない、多くの生活習慣病は襲いかかってくる。
運動するより食事を変えよう。
無論、運動は喜びである。そして喜びは心に良い。
そして、「喜び」にヒトは「依存」する。

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

エピジェネティクス革命

エピジェネティクス革命



すでに、遺伝学はDNAはあくまで「タンパク質の定義」でしか無いことをわかっている。

DNAは「ネジやボルトの規格」「パーツの機能記述」で、どう使われるかは環境がみちびいている。

DNAは決して全体を定義はしない。
パーツやネジやボルトは全体の存在を知らない。



運転手は世界の道路全体を知らなくとも、交通規則さえ分かれば目的地に到着できる。
海の広さを知らない鮭がやがて生まれた川に戻る。



私達の身体の中で思っていることは驚異的ではあるが、マイクロな生命にとっては日常である。



ライオンとヒョウからレオポンが生まれ、ロバと馬からラバが生まれることにもっと注目しなければならない。






遺伝子の「設計図」と言う概念は、ネットワークで言う所の「プロトコル」と言う意味でしかない。
細胞が外部からの刺激に対してどう反応するかと言う定義なのだ。

そしてプロトコルさえ持っていれば、生命は共生できるのだ。
逆に言えば、プロトコルの存在が生命の近縁さを表している。

豚のインスリンに人の細胞は反応する。
ヒトのインスリンは、牛のとは3箇所と豚とは1箇所しか違わない。

生命科学の展開は、私達生命がいかに強くつながっているのかということを教えてくれる。






プロトコルというのは本来「宗教会議での議定書」という意味である。
インターネットにおいてはRFCと言うプロセスを通じてプロトコルは追加されていく。
そして古いプロトコルはサポートされ続ける。

ウイルスの持っている遺伝子が、他の後から生まれた生命においても動くことは、20年前のOSも現在のネットワークに入れるようなものだ。
後方互換はテクノロジーの基本であり、生命にとって共生を保証するものである。








「デブは自己管理能力が無い」と言われるのは、早い話運転が下手だからデブになるのだと言っているのである。
しかし、デブという「目に見えやすい検査値」以外の検査値がおかしなときにはそうは言われない。
「高血圧は自己管理能力がないからなる」とは思われない。
何故だろうか?





その原因は「今日の食事」にある。
自由主義市場と言う「価格競争の厨房」で作られた食事』が私達を殺すのだ。
そして一人一人は違いすぎるからすべての人に効果のある食事などはない。







次のスタディのネタである。



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