DNAドグマとはなにか、「生命の設計図」という表現に隠された問題

生化学(生命についての科学)は「DNAドグマ」と呼ばれる仮説の上に成り立っている。
DNA(及びRNA)と呼ばれる物質が生命の設計図(遺伝子)であるという考え方である。


DNA(及びRNA)はタンパク質をコード化している。
そして細胞(生命のパーツ)は、タンパク質を生産する分子工場である。
設計図に従って作られたタンパク質が様々な生命活動を司っている。


ここまでは、おそらく誰も異論はない。もちろん僕も異論はない。



しかし、問題は「設計図」という言葉に秘められた意味である。
私達は「設計図」というと、家やプラモデルを作るための青写真を思い浮かべる。
完成図という言葉が適切であろう。


しかし、そうではない見方もある。

例えば、コンピュータのネとワークでは『プロトコル』という考え方がある。
ネットワークを構成するパソコンやスマホ、モバイルと言ったデバイスはそれぞれに異なったメーカーが作りメンテナンスしている。
しかし、通信を行う一定のルールをそれぞれに共有していいるのである。
このルールを「プロトコル」という。私達がホームページを見たり、検索したりすることが出来るのも、それぞれのデバイスやサーバーが共通のルールに従っているからである。


自動車を運転する場合を考えてみよう。
ドライバーは多種多様、道路の状況も様々である。
しかし、共通の交通ルールや反応の類推を行うことによって交通は維持される。
個々のドライバーは共通のプロトコルを持ち、それに従って自分の目的地を目指すのである。


プロトコルは『全体』を表現も定義もしない。
構成メンバーの振舞いを定義するが、その振舞いは全体が関与するものではない。













DNAゲノムの解析が進むに連れて、ヒトのDNAゲノムの家の98%はタンパク質をコーディングしていない事が明らかになった。
研究者の中にはこのノンコード部分をゴミだと論じる人達もいるようであるが、全くの的外れである。



タンパク質を「ヒトの言語活動」における「単語」であると考えてみよう。
「僕は大人だ」という単語のつながった文章を「8歳の子供、21歳の青年、58歳の男、89歳の老人」がそれぞれに発した時、全く異なった意味合いを持つ。
つまり、同じ「もの(単語=タンパク質)がその時の状態・状況にしたがって意味は違うのである。コンテキストに依存するのだ。


言語はコンテキストに応じた振舞いを起こす。
タンパク質は(代謝において)、その瞬間の環境(PHや他の酵素の存在)に応じて異なった反応を示す。




設計図(=プロトコル)というのは、「人と社会」のようなマクロの関係を考えた時にも。s同様の振る舞いをする。


翻って、複数の個体が互いを認識した場合(コミュニティを掲載した場合)を考えてみれば、同様の関係が観察できる。
人は誰かのあ存在を意識して、振舞いを決める。
物理的に存在していなくとも、心で思うだけで、振舞いを決める。
神や宗教、正義と悪の始まりである。





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