なぜ、マイクロバイオームなのか? 僕のマイクロバイオーム論(4)

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今大流行の「マイクロバイオーム」である。
しかし、どれも人という存在を別格のものとして扱っている。
動物や植物とは一線を引いたものであり、神がその姿を似せて作った最高の存在でありすべての生命は人の前にひれ伏すのである。
そう言っている。

腸内細菌叢を制御したり、様々な細菌を善玉悪玉に分けて、競わせたりしようとしている。
全くお粗末としか言いようがない。


細菌と、私細胞(精子卵子に起因するDNAゲノムを持った真核細胞)は環境に対して同じように反応をする。

人というコロニーの中の環境というのは体液の状態なのである。
それを維持するためにヒトは様々な営みを持つ。
社会や文明を作る。



どの議論も「私細胞」をあたかも絶対的なもののように扱う。
そう扱うと、「免疫が弱くなる」とか何も意味しない言説が幅を利かすことになる。

しかし、絶対的でないものとして考えると、「私細胞」が癌になることも自然な反応と考えることが出来る。
糖尿病が体の自然な反応であるようにである。


擬人化は問題を見えなくする。
せっかく、DNAゲノムの解析やタンパク質の立体構造を明確にしたと言うのに、前に進むことは出来ない。




ドーキンスは生命を「DNAの乗り物(ミーム)」と断じた。
僕は真核細胞からなる生命をミクロの生命のコロニーと考える。
ミクロの生命は生きることで環境を変える。
変わっていく環境にコロニーは適切に対応できないから、定期的に破壊されなければならない。
これこそが死の意味であり、生の意味である。




外界からのコロニーとしての生命の破壊は、コロニーの意識にとっては悲しみかも知れないがそこに生きるミクロの生命にとっては、せいぜいで引っ越し程度のものである。
私細胞は「私」の中でしか生きることは出来ないが数的に行ったららいした数ではない。


DNAを集約して共有する実験室としてのコロニーとしての役割はここで終わり、材料(身体)はリサイクルされる。






より効率のいいコロニーを作るために中に暮らすミクロの生命は蛋白質と脂質を基本構成としたメッセージのやりとりをする。

豚のインスリンがヒトにも効くことを考えるがいい。

真核細胞にとってみたら種などというものは大きのなハードルではない(注1)。
精子卵子が着床した後で分裂を初めて最初の細胞とは似ても似つかないものと進化(適応)していく。
誘導物質と私たちは呼んでいるが、私細胞は自分の周りの環境に応じて様々な変化を遂げる。

細胞表面の受容体を殺したり、生んだり、他の細胞からのタンパク質を受け取ったりして独自の姿に変わっていく(僕が再生治療という概念を否定するのはこのためだ)。


詰まり、「私細胞」というのはスタートは同じだが環境によって全く変わった細胞群なのだ。
しかし、そのコロニー以外では生きていけない。





ではなぜセックスを望むのか?
一生を通じて数人しか埋めないのに、老人となってもセックスをしたいのはなぜか?
他の種とセックスしたいのはなぜか?
顔を見ただけで虫が好かないという気持ちになるのはなぜか?



意識は、脳のパーツではない。
脳は刺激を集める部分ではあるが判断はできない。

意識は、どこに宿り、私達の行動は何がコントロールしているのだろうか?
マイクロバイオームからしたら、美味しいものは独占しておきたいはずである。
セックスはマイクロバイオームのDNAのやり取りを目的としている。
ハグもチューも同じ家に住んで食事絵を共にするのも、そうである。


寄生虫や、細菌はホストの生物をコントロールする。
この表現はホストをあまりに絶対視している。
しかし、そう見えるのだから面白い。



ホストの「私細胞」もその他の細胞も何ら意識なく代謝を重ねるだけである。

それがなぜ他のコロニーと関係するのか?
謎である。






マイクロバイオームは嗜好品を好む。無制限に欲しいという。

そして多くの場合、嗜好品はコロニーを破滅に導く。
宗教や家庭、社会は嗜好品を禁じる。
この意味を考えている。

僕の飲酒も、多くの人が炭水化物をタテないのも、「身体(マイクロバイオーム)が欲しがっている」からだ。






僕は今「神に対しての自由意志の存在」を議論するかのように「マイクロバイオームに対しての自由意志の逢存在」を議論している。

やれば破滅と分かっていながら夫以外とセックスをする。イスラム圏ではまさに規律に従わなければ殺される。
先進国と言われている国でも、ごく最近までゲイは犯罪か病気で、ホルモン治療か刑務所行きだった。


しかし、それでも、ヒトは逸脱し、破滅する。

マイクロバイオームは人の意識を支配していると考えれば納得がいく。
性欲とは子「供を作る本能」ではなく、「マイクロバイオームが生存域を拡大するための物」だと考えると納得がいく。

ああ、僕も支配されたいものだ(逸脱するには金と魅力が必要だ)。


LGBTQや子供や老人・犬猫牛羊などの家畜に対しての性欲も納得がいく。
異常で病気だと断ずることはない、その欲望には「森羅万象の神々」がついているのだ。

梅毒スピロヘータは元来「牛」という生命のコロニーに存在していたものである。
冒険をしたい神々がヒトに連れてきたのだろう。








つまり、マイクロバイオームの視点から見た人というコロニーを考えると不合理に見えていた「人の性(さが)」を合理的に説明できると思っている。

僕の興味はそちらにあるのだ。

依存症、介護、イジメ、パワハラ・セクハラ、LGBTQ、不倫、と言った問題の捉え方、
社会、結婚、宗教、政治、医療、教育、法、家族といった構造に対しての洞察。

そして「生活習慣病」への恐怖。

糖尿病から始まった僕の長い旅の終点が近づいているようなきがする。


意識とは、心とはなんだろうか?
なぜ「生きる」ということはこんなに苦しみの連続なのだろうか。

生きるべきか死すべきか殺すべきか生かすべきか?
僕は新発田ハムレット(笑)

来月の5日は母が亡くなって、丁度2年である。

969481






注1:真核細胞にとってみたら種などというものは大きのなハードルではない。
レオポン、ラバと言った異種間での雑種はすでに有名である。
神話には他の生命とセックスをしてその姿になるというものもある。
獣姦と言われるセックスの一形態も多く行われる。
男のお腹に受精卵をホストするという映画があったなあ。


『ジュニア』(Junior)は1994年公開
残念ながらこの映画未見である(笑)。