糖尿病=「社会のカナリア」試論

『食事はアウトソーシング出来ない』これが言いたいことである。




【 II型糖尿病の捉え方には2つの考え方がある。】

1)社会の構造的変化 <----> 2)患者の不摂生

無論、その両者は、分かちがたく、混合されるが、最終的にはどちらかに収斂する。
戦前は殆ど無かったものがこれだけ増えているのだから、原因は環境にあることは明らかなのだ。
しかしながら、発病の有無が個人で違うことや、肥満と結びついているという2点が患者の責任論を生んでいる。


父は85歳で元気である。記憶に残っている事が2つある。
出始めのインスタントラーメンを夜、父と作り、一緒に食べているシーン
夜中に父が寿司の折り詰めを持って帰り冷蔵庫で冷たくなったかっぱ巻きを翌朝食べているシーン。
過食が贅沢だった時代である。



僕は遺伝形質を受け継いでいる。そして父は、糖尿病ではない。その差はどこにあるのだろうか。




僕は18歳で東京に行って糖尿病と診断されるまでの13年間(1年新潟に帰る)東京で一人暮らしをしていたのである。
当然なのだが、この12年間、食事を気遣ってくれた家族がいなかった。

外食と、自炊(炭水化物中心の栄養学的に正しくない食事)で体が構成されていった。
今に至るレールはこの時に敷かれたのである。

確かに、食生活を選ぶのは自分である。
しかしながら、それ以外の道を選べない場合、果たして責任があるといえるだろうか。

グローバリズムが破壊した私達を守るバリア


グローバリズムは「市場経済」をその本質とする。
「グローバルな『食事』」という商品・サービスが存在するという幻想に囚われているのである。
人一人一人が違うように私たちに必要な食事は違っているのだ、ひとりひとりの正義が違うように。

今の食環境は徹底的にグローバル化されて金儲けに使われている。

また、コンビニや大手スーパーが価格競争によって地元に根ざした小売店を駆逐した。


かつて小売店は生産者と消費者を結びつける結束点であった、

コミュニティがそこにはあり、家族のために買い物をして、父母と共に料理を作り、食事をしていた。

様々なバリアが私達個人を守ってくれていた。伝統や、地域、職場、家族、お隣さん、親戚、私たちは多層、多重なコミュニティにくるまれていた。


そんなバリアをことごとく破壊したのが、この30年なのだ。

地産地消と言う言葉が発明されたのは1980年代だというが、つまり、それ以前は当たり前の事だったのだ。

『百年しばた』と言う市民団体を主催しているが、大事な主題である。そしてそれらは、すでに取り戻せないものと知っている。新たに作らねばならないのである。






【社会の問題というのはなぜか】

今の社会は大変なブラック社会である。
夫婦は共働きが当たり前の社会階層がいる。
夫の年収と家族の維持に必要な経費の関係で浮き彫りになる階層である。


また、『食事作りの学習』の機会が決定的に欠落している。
学校教育の「家庭科」で料理や栄養学を習うが、役に立つものではない。




『老化が早く来る病気』と糖尿病を捉えることで、色々なことが見えてくる。


【炭鉱のカナリア
アトピーの方のページを見つけた。
興味深く読ませていただいた。

ステロイドは大変な特効薬なのだが、多くの問題を抱えている。
まさにインスリンと同じ問題を持っている。

以前に随分ADHDについての考察を行った。

社会の中で敏感であったり、特定の組み合せで最初に発病して、その社会の問題点を明らかにしていくのだ。

そんな事を考えている。


文学者を『炭鉱のカナリア』よ考えたのは僕の大好きなカート・ボネガットさんの言葉。



【自己責任の補論】

日本では様々な問題が起こった時に『自己責任』と言う言葉が聞かれる。
特にに税金が使われた場合著しい。

ああいう論調を進める連中は「自分は絶対にそうはならない」と言う根拠の無い確信んお腹に生きているのだろう。
『被害者の家族の気持ちになってみろ』などという言葉も自分の家族は加害者にならないという根拠の無い確信から生まれる。



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