出来る我慢と出来ない我慢
今回のダイエット(生活のあり方)は今のところ続いている。
僕(1960年生まれ、55歳)の糖尿病発病からの25年間のダイエット人生を振り返ると、上手く続いたものとダメだったものがある。
継続可能なダイエットってなんだろうか?
いつも考えている。
「マクロビオテック」「糖質制限」のような、食事運動がある意味「宗教的な使命感」を帯びているのは良く分かる。
宗教的なと言うのは、『経典、ドグマ(共通の価値)、儀式」を持つということっである。
セクト争い、分派、が起きて、商業的な成功があったりすると、内ゲバ、ドロドロの本家争い、なんでもありである。
重要な事は『権威』がそこに発生して、コミュニティが存在するということである。
その権威に依存することが心を安らがせることは事実である。
今のダイエットが継続しているのは、「現在の権威的な医学会の糖尿病の治療」に対して、自分の価値を証明しようとしているからだと思う。
大変強い使命感がそこには生まれるのである。
僕は「どんな権威」をも信じれないから、その意味では、僕は、開祖であり創始者なのである(笑)。
『使命感』は脳に強い快感を与える。
中毒に対向するためには、それより強い快感を与えなければならないのである。
炭水化物中毒、タバコ中毒、いずれも、肉体に強い満足を与える。
しかい、それ以上の満足を得ることで継続が可能なのである。
糖尿病治療から逃避する人々を「意志が弱い」などと言ってはならない。
誰も、自分を貶められるために医師の前に座ったりしない。
糖尿病の治療は、「権威者である医師」が「患者」をひざまずける過程である。
それは、医療全体に言えるのだが。
学校の教育と同じである。
自分のことを『知識の入れ物』であり、奴隷になるための「銀行型学習」なのか、何かを出来るようになる「メタセノイア」型の学習なのかの差でもある。
患者は、病気の入れ物ではなく、自分の一部に「病」と言う名の問題を抱えている生きた人間なのである。
その問題は患者の一部であり、決して簡単に否定するべきものでも、追い出す対象でもない。
病と共に生きることを選択するべきである。
人はいずれ「死に至る病 terminal case. 」を生きているのである。
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