糖尿病の治療の経験・履歴・歴史を調べてみた

糖尿病を「発病」したのは1992年の事である。今の僕の考え方では、「発病」という言葉に間違えがあった事に気がついている。糖尿病というのはその時点で体が処理できる以上の糖質を体内にれた時に起こる現象を意味するのである。例えば、小麦粉のアレルギーの人は小麦粉を摂取するとアレルギーが起こる、糖尿病は糖のアレルギーと考える事がである。問題は、社会的な捉われ方である


僕の治療の記録を時系列に従って書いておきたい。

どんな人でも、糖尿病の病歴は人生と切り離す事はできない。人生に別な選択肢などない。
「医師や栄養士」は権威を振りかざし、患者が権威を見れば生活を変えると思う。

「共に生きる、家族や周りの人々は、恐怖から、権威を借りて」自分にもできもしない言葉を並べる。

大事な人生を「ダメ」の一言で済ませても、何の問題も解決しない。

他人事なのである。具体的にどうしたらいいのか考えるべきであろう。

誰でも年を取っていけば内臓は衰える。インスリンは出なくなる。やがては自分の問題になる。

アルコール中毒から糖尿病、そして透析になった友人がいる。僕は彼を愚かだとは思わない。奔放で、男気があり、義理堅く、人に優しく、好き嫌いをはっきり言う、僕は尊敬している大事な友人である。医師は彼の人生を「ダメ」の一言で済ますだろう。僕は彼が大好きである。


1960年生まれ 1978年上京 3年浪人後神奈川大学入学
1985年〜出版会社勤務
 
最初に入った会社は学術系とでもいうべき出版社であった。

半年でクビになり、次に入った会社は不動産会社の手先であった。


この時期に太り始める。時代もバブル真っ盛りである。
 
 


重度の水虫となり、指の間が癒着するが、糖尿病の前駆状態とは思わなかった。ができたり、画鋲が刺さったり・しても気がつかないことがあった時期。
歯茎から血が出て、リンゴを食べるのが恐怖だった。当然歯磨きをすると白いはずの歯磨きが鮮血で真っ赤になっていた。
血糖値が高いということはなかったが肥満となっていった。当然、境界線型とも言われていない。

太っていれるという事は、インスリンが「多すぎるブドウ糖脂肪酸に変えて脂肪細胞に取り込んでいい」という許可を出して、その許可に体が従えるから太るのである。だから血糖値は高くならない。肥満は検査値に出る前の糖尿病であるやがて、肥満は進み、脂肪細胞が取り込めなくったり、インスリンが出なくなったりする。そうすると血糖値が上がり始める。




太っていても自分は「糖尿病などという病気ではない」と考えていた。

 

1989年〜ソフト会社勤務
この3年間は大変なストレスのある生活を送っていた。最終的に14人になる開発チームのトップとして売り上げを守るために月300時間の残業をする。当然、会社には週に2-3回は泊まり、土日は出勤である。会社のそばにある飲食店は牛丼、蕎麦、カレーといった炭水化物主体のものであった。
腰痛、肩のコリ、疲れやすさ、に苦しめられた。「全身の組織境界での炎症」というのは糖尿病の前駆症状である。

水虫は、皮膚科に頻繁に通う様になって終息する。これも恐ろしい問題を秘めていることに気がつくのはもっと後である。
本来皮膚自身が強力にスクラムを組んで外敵から体を守るべきはずなのに、高血糖状況は体の免疫力を低下させていっていた。
その根本原因を正さないで外部から病理を叩いたのである。私の足は、この時期のダメージが未だ残っている。脛には沢山のシミが残り、その部分は定期的にかさぶたとなり、外部からの刺激で傷がつきやすく、やけどになりやすい。
常に注意していないといつの間にか傷ができている様になっている。
そんな今(2016年)の状況がこの時期から始まっているのである。

胃荒れがひどく舌は真っ白で、便秘か激しい下痢のどちらかであった
これは、新潟に帰る直前に玄米食を始めることで改善する。

いずれも高血糖による代謝異常の影響である。これを糖尿病という。やがて合併症に発展する
口乾きや頻尿といった高血糖の状態が始まるのはもう少し先だった。
3年間の勤務の2年目の検診で「境界型」という診断を下されるが、精密検査は忙しさを理由に受けなかった。

「境界線型」という病名の欺瞞性に気がつくのはもっと後のことである。境界線型というのは、医師がインスリンや血糖降下剤を処方できないくらい軽度なだけで、もう膵臓は疲弊し始めているのである。

1992年独立

3年間勤めた会社を辞めて独立することになるのだが、その前に健康診断を受けたら、今度は「要精密検査」との厳命である。糖負荷検査を行って完全な糖尿病という診断である。


この時、体重は120kgであった。医師の話を聞き「糖尿病」という病気を知り、体重を落とすことに熱中する。3ヶ月で25kを落とし、最終的には85kgにまで落ちる。


 
多分この頃の体重計の写真。100kである。今でもあるお腹の妊娠線(減量肉割)である
 


とにかく、食べないで、カロリーを落として、ビタミン剤などを摂ることで体重を減らした。自殺的ダイエットである。
このころの糖尿病に対しての理解は今とは相当離れているものでした。「尿に糖が出なくなったならば糖尿病ではない」という実に素朴な考え方だった。
現在、私は「単純な一回の検査値が基準内か」ではなく「食事と膵臓の疲弊度(内臓年齢)が一致していない状態続くことが問題だ」と考えています。
無理な食事制限でしたから、当然元に戻ります。この後、体重は概ね100kgを推移します。
しかし、ずいぶん病状は好転して、一応の回復をみます。この頃の生活が続いていたら、おそらく、膵臓の疲弊は今細には進まなかっただろうと今でも時折思います。


1993-4年帰郷〜肉体労働に従事

この時期に、東京での生活が破綻して、新潟に帰ることになります。

地元にいい仕事がなくてつてを頼って大阪の下水道コンサルタントに入りますが、半年でクビ(笑)。
大阪時代は、毎日弁当(玄米に根菜、魚主体「マクロビオテックに傾倒」)を持って、市役所を歩き回って非常に良くなっていく。
 
 

 
どうしているだろうか、大阪の人たちは.........


そして再度新潟に帰ります。
新潟では幾つかの会社を転々としますが結局は鉄工所で現場労働を行います。
スリッタと言って鉄の薄い板を一定の幅に切る仕事です。毎日工場で肉体労働に従事します。この3年間は健康的でした。
東京での無理なダイエットの結果、持ち直した健康が維持されるのです。糖尿病は、既に過去の記憶となりつつありました。


現場仕事だったが、素晴らしい人たちに囲まれていた。
 
この頃、結婚します。どこかの空港のレストラン。

そして、会社の倒産劇が起こるのです。
最初の子供が生まれ妻は車で1時間ほど離れた実家に帰っていました。

労働組合の委員長として労働争議を進め、委員長だった僕は、ほぼ半年間、毎日三交代の現場を回り、社員と話し合いながら夜遅くまで資料を作り、過ごします。明け方にバックドラフトのテーマ聞きながら弁当屋で牛丼買って、夜は弁当食いながらビールを飲んでいました。1億3千万円の割増退職金を得ることになります。
この労働争議は僕の人生の最高の瞬間だった。


そんな私には地元での就職先はありませんでした。そのために、地方のソフトハウスとして東京からの仕事を受けるようになります。その生活は、かつての糖尿病を生んだ生活だったのです。

僕の糖尿病は、見事にギアはバックに入ったのです。

1999年〜2011年 ソフト会社を起業〜治療を開始
東京の友人からの仕事を受けて地元でソフト会社の経営を始めます。
景気回復と相まって仕事が集まり、東京への出張が頻繁になり飲酒の機会も多くなり、業容を拡大、社員を雇用する様になります。
当然ストレスもたまり、それとともに糖尿病も復活してきます。
この時期に健康診断を受けて、糖尿病が復活してきていることを再確認します。
家族ができ、忙しさも、ストレスも大きくなり、この時期に医師の治療を受け始めます。
治療を始めるものの、自覚症状のない状況は糖尿病を軽く考えさせま薬を飲んでいれば血糖値が低く抑えられるので食生活は食生活は一番ひどかった頃に戻っていきます。
やがて、処方されている薬が、治す薬ではなく単に血糖値を下げるだけで、膵臓を疲弊させる副作用があることを知り、治療を行わなくなります。





2015年に眼底網膜症の診断を受けて2015年6月から現在まで自己血糖測定をキーにした食事療法を行う。
その話はまた別にまとめたい。というかこのブログを読むとよくわかる。

ちなみに、今はこんな感じである
 



日付 A1c 血糖値 医師、処方など
01/06/22 6.2 99 保険特約検査、不可(尿ケトン++)絶食のため
03/01/31 9.1 331 H医院 処方なし、食事
03/04/24 7.7 124 H医院 処方なし、食事
03/11/19   204 SA医院 クリミクロン
04/07/10 12 252 SA医院 クリミクロン
04/07/26   183 SA医院 クリミクロン
04/08/26 9.5 140 SA医院 クリミクロン
04/10/05 7.9 133 SA医院 クリミクロン
05/01/08   174 S医院 アクトス・スターシス処方
05/11/17 11.8 259 S医院 アクトス・スターシス処方
06/01/11 9.7 149 S医院 アクトス・スターシス処方
06/03/23 6.7 159 S医院 アクトス・スターシス処方
06/05/02 6.3 219 S医院 アクトス・スターシス処方
06/06/12 6.5 126 S医院 アクトス・スターシス処方
06/07/19 6.6 127 S医院 アクトス・スターシス処方
06/08/29 6.3 115 S医院 アクトス・スターシス処方
06/10/06 6.3 135 S医院 アクトス・スターシス処方
06/11/28 6.7 148 S医院 アクトス・スターシス処方
07/02/28 6.5 106 S医院 アクトス・スターシス処方
07/05/30 6.5 116 S医院 アクトス・スターシス処方
07/10/11 8.4 222 S医院 アクトス・スターシス処方
08/04/24 13.6 484 S医院 アクトス・スターシス処方
08/06/04 12.7 280 S医院 アクトス・スターシス処方
08/07/03 11 159 S医院 アクトス・スターシス処方
08/09/03 7.8 152 S医院 アクトス・スターシス処方
08/11/28 7.8 255 S医院 アクトス・スターシス処方
10/11/18 14.2   個人での人間ドック受診
12/11/27 11.7   肋間神経痛のために整形外科で診察


アクトス、スターシスという薬は経口血糖下降薬でSU剤と呼ばれる分類に入る。SU剤という薬は膵臓にプレッシャーをかけてインスリンを出させるために膵臓の疲弊が進む。
今でも残念なことは、2001年の検査でA1cが6.2で有ったことである。
もしこの時点で自分の「内臓年齢」にあった生活を見つけられていたら、今の様にカレー食べて300mg/dlの血糖値になったりしないですんでいたのかもしれない。







新潟帰った頃
 

八丈島クリスマスキャンプ
 


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