父と暮らす:父に見えるもの、自分に理解できない他人をとともに生きること。父の「手動かし」。自分の未来を見ること、未来の自分を助けること。「認知症」というフェイクな病。

昔、エッセイで、指揮棒付きのレコードが売り出されたと読んだ。
オーケストラが演奏する交響曲を聞きながら、部屋で指揮をするためのものだという。歌い踊る、スポーツをする人を見ると体が動き出す。これは喜びであり、アタリマエのことである。

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ところが、自分に理解できない動きを見ると「病気」で治療が必要だということになる。
父が、ウトウトしながら手を動かすのを見ては、あれは何をしているのかなあと思う。

父は毎日、朝食事をしたあとでテーブルに座ってぼーっとしている。
口をすすったり、歯をいじったり、鼻をいじったり、忙しい。
あんまり見ていて気持ちのいいものではない。

昔は「やめろ、この家ではやめろ」と実家に追い返しがちであった。
しかし、いつの間にか、これで良いのだと感じ始めた。

年取っていくと骨格から組み換えが起こり、歯の隙間が空き始めるのだろう。
数年前はこんなに歯をいじることはなかった。
当然、ツバた手についてテーブルとかにつくから気持ちよくはない。
しかし、いつの間にか気にならなくなった。

しかし、何が見えているのだろうか?
父は商業学校を出て長く経理の仕事をした。電卓などよりソロバンを使ったものだ。
なにか計算をして桁上りをしているようにも見える。
父の実家には「五つ玉の古いソロバン」があったことをもい出す。


専門家は「レム睡眠行動障害」とか「せん妄」とか何かの病状を付けて薬を売りたがる。
認知症の前段階だから治療を始めるべきだという。
生活習慣病と言う『検査値の異常を「合併症=死に直結する病態」の原因だ』というロジックと同じである。




僕は年取ったら当たり前のことだと思っている。


施設に入れて、老人の行動を観察するようになり、自分たちとの違いばかり見るからそんな対応になる。
「90歳になった自分がそうならないという」思い込みがそこには有る。






他人の頭の中で「何が見えている」のかを私達は、その人のふるまいから類推する他無い。
その時のいちばん重要な基準はその人と自分が「同じと信じる」かどうかということである。
「違う」と判断されたら「刑務所」か「精神病院」行きになる。
昨今では精神病院にいれるのはコストの割に利益が出ないから「抗うつ剤」となることが多い。






父の聞こえる交響曲を一緒に聞いてみたい。
母と一緒にダンスしているのだろうか。


人生は苦痛の連続である。
「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」全くそのとおりである。


2/3の朝食の後である。
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食事が終わったあと、長くテーブルに座っている。
寝ているように見えるが、手を動かす。
何をしているのか聞いたら「どれをポンしたらいいのか考えていた」という。
若い頃、会社のみんな集めては麻雀していたものだ。
卓を囲むメンツは誰だろうか。

今度、牌を探してみよう。
何処かにあった。