「雇用」があるということが良いことではない。満足な生活が出来るような賃金と時間的(人生的)余裕のある雇用があるかが問題なのだ。こういう社会はテロで滅びる。命を燃やして絶望を表現する人たち。
「雇用」があるということが良いことではない。
満足な生活が出来るような賃金と時間的(人生的)余裕のある雇用があるかが問題なのだ。
失業率が「社会の公平さを評価する意味」を持っていたのはもう昔の話である。
わかっているだろうか?
いくら働いても結婚も旅行もできないような賃金で毎日朝早くから夜遅くまで働いて、その給料は皆誰かが「金持ち」になるために消えていく。
いつこんな社会になり始めたのだろうか?
この問題の起源と進化を考えている。
おそらくは1980年台の「自営業・農業」という企業形態の破壊とともに生まれている。
自分で給料を決めることの出来る時代の終焉である。
ソニーやホンダが街の商店や自転車屋であった時代のメンタリティのまま、この覚者さや会は生まれた。
「家族」というシェルタの破壊と機を同じくしている。
そして、年功序列も終身雇用も消え、非正規雇用率に歯止めがかからない。
「年功序列や終身雇用」は能力主義の「反対語」ではない。
家族を守り自分も守られるという、経営と労働者の一体を意味している。
「家庭=企業」だったった時代は家族を見捨てることはなかった。
子供がやがて家業を継ぎ、自分の面倒を見てくれて、家族は力を合わせて家を大きくする。
小さな自営業が多くあり、そこで父母は生きていた。
そんな時代に育まれたメンタリティを「所有と経営の分離した企業」は上手く使う。
土地バブル(水洗便所とエレベーター+エアコンが生んだ)はとんでもない金の集中を生んだ。
40年前に東京に済み始めた頃、都心でも汲み取りトイレのアパートがあった。
せいぜい2階建てである。しかし、今では同じところに30階建てのビルが立つ。
家賃収入はとんでもない金額になる。
高層マンションに住んで家賃を払うのは、少し金を持つ「奴隷」である。
2時間かけて会社に通うのは貧乏な奴隷。
狭いアパートに住むのはもっと貧乏な奴隷。
この格差はどうして生まれたのだろうか?
なぜ、是正されないのだろうか?
奴隷が物を買うからクレイジーリッチは生まれる。
2012年の映画ということでびっくりした。
「共通の価値」の消失を僕は「宗教を失った」と表現する。
人の欲望は果てしない。
何処かで我慢しなければ永遠に渇望は続く。
誰かが豊かになるには、誰かが貧しくならなければならない。
同じコミュニティ(価値を共有して、分配関係を持つ人の関係)に於いて生まれるのだ。