幸運な病のレシピ( 600 )朝:豚揚げの甘酢仕立直し、鮭、シシャモ、煮しめ

今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
『炭水化物がいらない食卓』はこちら『幸運な病のレシピ 宣言』はこちら『幸運な病のレシピ』はこちら
人生痩たり太ったりSeason2、Season1はこちら



【 2018/8/19の食事 】


昨日の昼に作った豚のフリッタがあまっていたので、酢豚風にした。
ソースの量を間違えて、最後にまた加えた。次はうまくやろう。
酢豚って好きなのだが、これでも十分美味しい。
キュウリとパインが入っている中華料理屋さんに20代の頃入って驚いたことがある。




煮しめはいつもの手順である。
朝食は、シシャモと鮭が入った。加えて昨日のあまっていたサバの水煮とキムチを食べた。
少し寝たら仕事してプール行ってこようかなあ。
屋外のプールは寒そうである、ちょっと離れた屋根の中のプールにしようかなあ、面倒なので本読んでいようかなあ。






全て自分で調理を始めたのは、2015年も終わりの方だったような気がする。
一部の料理を作りながら、後片付けは妻に任せていたのだ。
しかし、これでは妻がいなくなったときに何も出来ないと考えたのである(笑)。
子供の弁当作りから、全部の食事を自分で作り始めたのである。

そして、厨房仕事がいかに複雑な要素で組み立てられているかを知った。
随分家族とも諍いがあった。





家族の食事を作るというのは、とにかく面倒なのである。
ある意味の権力関係が必要となる。

つまり、各個人は食べたいものが有り、それを求めている。
しかし、家庭で素材から作るとなると、それを食べる機会を失わせることになる。

家で作った食事が、スーパーでの嗜好品を存分に使った商品に叶うはずがない。



大きな問題である。
母にいつも弁当のおかずが汚いと文句を言っていたことを思い出した。




しかしもっと大きな問題は、継承の問題である。


いずれ家族は違った厨房での食事を食べ始めるのである。
親から独立した子供は自分の食べてきた範囲でしか食事を作れない。





三世代住宅がいいのか悪いのかはわからない。
プライバシーの問題や家族という制約は様々な問題を生む。
また、その逆もある。

しかし、確実なことは、もう戻れないということである。





毎日食事を作ることの価値を見つけたい。
僕が母に教えてもらった物を形に残したい。
2015年の苦しかった時、力つけてくれたのは母だった。

多分、食事には単なる栄養を摂取するという以外に沢山の価値がある。
多くの災厄を押しのける力がある。

そしてそれは、そう遠くない未来に僕が直面する問題である。


父の食事を作り、共に食べる。
介護だとか、世話しているなどとは思えない。
自分の30年後の姿に向き合っているのだ。

元気で自分を見失うことなく生きる食事を作っていきたい。

父と母との関係が「循環し再生する家族」と言う概念を生み出してくれた。
そして、それはすでに失われたことも知っている。

同時に、僕は、30年後は介護施設の中で生きていると思っている。
今の父のように幸運に恵まれることはあるまい。
年金は価値を失い、子供が家で仕事をしながら僕の面倒を見てくれるとは思えない。
母は83−84歳で食事を作る力を失った。
僕がそうならないとは思えない。


いずれにしろ、人は孤独の中で死ぬ。




施設では、80歳の僕にどんな食事を作ってもらえるだろうか。
老人になったときにどう扱ってもらいたいだろうか?


死ななければ、その日は必ず来るのである。
ではもう少しあがいてみてもいい。

男子一生の業とするに足りるのである。



今日はマユがご相伴である。






1139754