僕のマイクロバイオーム論(25) 性的表現とはなにか。セックスの表現とは何であり、何で無いのか。正常とか正しさには意味があるのか。

僕のマイクロバイオーム論シリーズはこちら
このエントリーも見てね「ユルマズ・ギュネイの『路 (yol)』映画の話です


僕は白田 秀彰先生が好きだ。

この本もずいぶん昔に買った。

昔、ミクシーで少しお話したことがある。
ネット上の表現の自由や様々な性的表現に関しておかきになっている。
著作権に関しての本は大変勉強になった。

今でも、書作権に関してのお考えは好きである。



白田 秀彰先生が性的表現の規制に関してお書きになっているようなので、僕も書いてみよう。

1)「ヒト」は受胎可能期間を隠す「サル」である。
ヒトは「子殺し」を防ぐため+群れの巨大化を図るため=受胎中でもセックス容認するサルとなった。
ジャレッドダイアモンドさんの本に詳しい(12)。



2)セックスは、受胎のためではなく、マイクロバイオームの交流のためである。
つまり、公衆衛生の良好化は、様々な形でのマイクロバイオームの交流の道を塞いだ。
そのために、性のパターンが変わって来ていると言う考え方である。
『「ヒト」はマイクロバイオームに操られている』と言う前提が気に入らないヒトには受け入れがたい。



3)交尾の相手を探すためにコミュニケーションが必要になった。
何らかのコミュニケーションの中に自分が交尾したいと言うメッセージを込め、相手に伝える必要が出来たのである。
ヒトは、交尾したいマークのメスを見つけてさっさと済ませるわけには行かないのである。仔が大人になるまでのコストが大きいためであろう。

そして、これがセクハラ(交尾を開始するまでの長い交渉の入り口)の意味である。
「オッパイ揉んでいい」とか「お尻り触る」「ジロジロ見る」全て、その次の一歩のためなのである。ジロジロ見て終わるわけがない、多くの「エロ漫画」や「現実」では次のステップは相手が容認してエスカレートしていって、最後は日当たりの良い縁側で二人で緑茶をすするところで終わる(笑)。誰か、マット・ディモンに教えてやってよ(注)。



4)同時に、感染症の対策はコミュニティ単位でなり立っている。
セーフティなセックスは重要な問題である。
コミュニティは欲望を満足させる事が大きな役割である。
しかし、マイクロバイオームの交流は多くの災厄をコミュニティに流入させる。
エイズや梅毒を例に取るまでもなく異種間のセックスはそれまで存在していなかった感染症をコミュニティにもたらす。



5)「家庭・宗教」という規範の保持するための装置の崩壊が起こった。
コミュニティの単位は「行動の規範」の単位でもある。
「知らない人について行っちゃ駄目」と言う行動規範は知らないヒトとのコミュニケーションが成立しないから意味がある。
ネットや携帯電話は知らない人ではないような錯覚を植え付ける。
ネカマ、援交、いずれも従来(そういった手段ない世界)ならば「知らない人」を「知っている人」に格上げする。
ときには家族より自分をわかってくれていると錯覚させる(家族が自分をわかっているのかということは別問題ではあるが......)。



6)男も女も、マイクロバイオームは疼かせる(操る)。
セックスをしたいのは「老若男女」全て同じである。
介護されている老人がセックスの夢を見るのは当然である。
なにせ、セックスは受胎の為ではないのだから。
しかし、「老後」の生活の保証のためにヒトは「群れ=家族<>行政の介護メソッド」を維持している。





性的な奔放さは、コミュニティを危機に陥れるために「忌避」される。
それがタブーである。
歴史的発展と現在の状況が様々な「タブー」の形態を生む。
決して、西洋が良いとか、タブーが少ないほうが良いとか、陰毛が出ていてもいいが性器の露出は駄目だとか言うような問題ではない。

イギリスでは1960年までゲイは刑法犯だった。
中世の終わりには魔女狩りで多くの人が焼き殺された。

みな、それぞれに、その時代にはそれなりの理由があった。
「ヒト」という「構造」は変わらない。






僕の取り組んでいる『食事哲学=新しい家政学』の中には、「セックスという欲望」についての一章がさかれる。

『性と食』死ぬまで付き合わなければならないものである。
社会というものは、この2つの原動力が動かしている。

やっぱり、最後は「マイクロバイオーム」なのである。




性表現規制の文化史

性表現規制の文化史

  • 作者:白田 秀彰
  • 発売日: 2017/07/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


白田 秀彰先生はコスプレからも見て取れるが、「オーソドキシアン」のようである。
たしか、ブログで「最近の若者は「顔射(顔に射精する)」は気持ちよくないのに、AVでやっているの見て気持ちいいと思いこんでいる」とAVの悪影響を嘆いていらっしゃった。
たしかに僕もそうは思うが、マイクロバイオームにしたらそれでも良いのかも知れない。精子と共にマイクロバイオームがパートナーにたどりつくのである。飲んでもらえればもっと良いかも知れない。

同様に「のそき」「満員電車の中での射精」「SM」「寝取らせ」「教祖の汗を飲む」「爪の垢を煎じる」いずれも自分に理解できないかも知れないが、その人を操っているマイクロバイオームにとっては切実な意味があるはずである。

何かの調査で、女性が一番気持ちいいと感じる性交渉はフェラチオ(口でペニスをくわえ愛撫すること)だと読んだことがある。これは、マイクロバイオームにとっては口の粘膜を通じて「カウパー腺液など=マイクロバイオームの集まり」の吸収が出来るからである
。ディープキスや、ナメナメなども同様である。

いずれも「好き」でなければやっちゃいられない。そして「好き」というのは「マイクロバイオームが身体を操っている」事を正当化するための「意識の(コミュニティに対しての)言い訳」である。

相手と共にそのコミュニティに属していたいならば、「好き」であり続けなければならない。不倫相手と結婚しなければ芸能界では許されないことがこれで説明できる。




僕は、ブログから見て取れるように「デブで依存症で変態で変質者」で、「II型糖尿病」である。


ヒトは、皆どこかに自分の停泊地を持たねばならない。


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この問題はマット・ディモン問題と呼び、今度詳細を検討する

ハリウッドのセクハラ騒動:マット・デイモンの発言に批判殺到。「男は何も言わないべき」なのか?
2017/12/17(日) 9:12 yahoo ニュース



 4人の娘を持つ愛妻家のマット・デイモンが、突然にして女性たちを敵に回した。ここ2ヶ月、ハリウッドを騒がせてきたスキャンダルについての発言が、あまりに無神経と取られたせいだ。

 最新作「ダウンサイズ」の北米公開を22日に控えるデイモンは、今週、ABCのニュース番組に出演。インタビュアーのピーター・トラヴァースから、「今、多くの人々がセクハラ問題で槍玉に挙げられていることを思いますか?」と聞かれると、彼はまず「女性たちが、勇気を持って自分の体験を語れるようになったのはすばらしいことだ。それは必要なこと」と答えた。問題は、その直後。「だけど、それらの行動には、幅があるよね。お尻を触るのと、子供に性的虐待を与えるのとは、違う」と言ったのである。

 次に彼は、女性のお尻を触ったなど過去のセクハラが暴露されて上院議員を退いた民主党のアル・フランケンについて、「倫理委員会で、まず審議にかけるべきだった。今は、みんながあまりに激怒している状況。ちょっと立ち止まって、誰も完璧ではないんだということを考えるべき」と語った。やはりセクハラのせいで事実上ハリウッドから追放されたコメディアンのルイス・C・Kについても、「彼がやったことを詳しくは知らないが、彼の声明は読んだ。そしてちょっと感動した。彼は『僕はこれをやりました。この女性たちは、みんな真実を語っています』と言っている。この人は問題にちゃんと向き合えると思ったよ」と同情を見せている。

 その後には再び、「レイプや子供への性的虐待は、絶対に刑務所行き」、それ以外は「もちろんやってはいけないことに違いはないが、情けなく恥ずかしい行動にすぎない」と、罪の重さの違いを強調、「ルイス・C・Kは、もう十分制裁を受けた。彼は二度とああいうことはやらないはずだ」とも述べた。知り合いが問題行動を起こしていると知った時、あなたは何か言いますかと聞かれた時も、デイモンは、「友達だったら常に正直に話すけれど、仕事仲間程度だったら、その行動がどういうものかにもよる」と、ここでもまた、問題行動のレベルの違いを出してきている。

今は怒りが爆発し、戦いモード。でも、ここからどこに行くのか
 これらの発言を受けて、ツイッターには「幅があるって?自分の友達のための言い訳をしたいの?それとも自分のために?」「マット・デイモンは自分のキャリアを潰したね」「彼への敬意がすっかり失せた」というような批判コメントが多数投稿された。「#MeToo」運動を始めたアリッサ・ミラノは、デイモンが「今、みんなが激怒した状態にある」「罪の重さの違いを考慮すべき」と言ったことに対し、「写真を撮っている時に誰かにお尻を触られたから激怒しているんじゃないのよ。それが当たり前だと言われてきたから激怒しているの。それについて何も言うなと言われてきたから」「ガンにはいろんな段階がある。治療できる段階も。でもガンであることに変わりはない」など、複数のツイートをしている。

 一方で、「マット・デイモンは、正しいことを言っている。おそらく多くの人が思っていることだ」「彼の言うとおり、アル・フランケンとハーベイ・ワインスタインは違うということを認められない人は、現実を見ていない」「興味深い発言。彼は頭が良い」といった、彼を支持する意見もある。

 実際、デイモンは、フランケンやC・Kなど、認めた人がキャリアを失い、認めないトランプが今も大統領であることの不条理を訴え、「今の状況は、若い男たちに罪を認めるなという間違ったメッセージを送っている」と、興味深い指摘もしている。リドリー・スコットが「All the Money in the World」で、ケビン・スペイシーが演じた役をぎりぎりになってクリストファー・プラマーで撮り直したのも、スペイシーへの制裁ではなく、「そのほうが興行成績のためになるという、あくまでビジネス上の判断」だとも語った。だが、それらの部分について何も言われていないのは、 一部だけがソーシャルメディアで取り上げられ、それに人々が反応したせいではないかと思われる。

 セクハラで訴えられた人々の肩を持つのは、たしかに賢くない。だが、男性がこのことについて恐れて何も言わない今、堂々と本音を言ったデイモンはすごいと、筆者は思う。それができたのも、デイモン自身に、基本的にやましいところがないからだろう。もちろん、彼がプロデュースした「マンチェスター・バイ・ザ・シー」に、セクハラでふたりの女性から訴えられた実績がある幼なじみのケイシー・アフレックを主演に据えたり、ケイシーの兄ベンのセクハラ癖を長年容認してきたりなど、彼にも間接的に責められる要素はある。さらに、2004年、一度「New York Times」がワインスタインのセクハラ問題について取材を始めた時、デイモンが編集部に電話をして企画をつぶしたとの説もある(デイモンは断固として否定している)。

 ソーシャルメディアに出ているコメントの中に、「男はこのことについて何も言わないべきなんだ。何を言ったにしても女性から叩かれるんだから」というものがあった。それは、正しいかもしれない。これまで、女性たちは声を聞いてもらえなかった。男たちから、黙っていることを強要されてきた。今度は、男たちが聞く番だ。だが、正当な意見ですら言えなくなるのは、どこか違う気がする。悪いことをした人の言い訳はもちろん聞きたくないが、前向きな話し合いは、なされても良いのではないか。

 このインタビューで、デイモンは、セクハラ騒動で仕事を失った男性はこの業界のごくひと握りで、「映画業界には良い男性もたくさんいる。今、除去されているのは、悪い人たち」とも語っている。それらの良い男性たちが、職場環境や社会を良くしていくために語り合うのであれば、それは奨励すべきだ。「状況を見つめ、話し合って、みんなで一緒に向上し、次へと進まないと。今は、怒りが爆発し、戦いモードにある。それは当然なんだが、じゃあここからどこへ行くのか、という時が、いつかは来る」とも、デイモンは語る。その過程はきっとスムーズではなく、叩かれたり、傷ついたりする人も出るかもしれない。デイモンはきっと、その最初のひとりだったのだ。

Denial is the most predictable of all human responses.