僕のマイクロバイオーム論(10) 本当に大事なものは目に見えない。進化とは環境に対しての適応であるということ。

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ここで言う『目』とは物理的な目玉ではない。
「五感では認識できない」という意味である。

おならをすると、臭いと感じる。
腸内の「臭いの元」が空気中に放たれるのである。

では、『臭いの元』以外には何も放たれないのであろうか。
においといて感じなければ何も起こっていないのだろうか?


いや、そんなことはない。「匂いの元」以外にも数限りない「物」が放出され周りに影響を与える。
「おなら」以外には皮膚の表面から何らかのものが放出されてはいないか?
なぜ体臭を気にするのか?
香水の役割は体臭を消すではない。

ステロイドアトピーのかゆみを消す劇的な効果のある薬剤)は皮膚の表面から浸透して、身体に影響を与える(注)。







鼻腔内の匂いのセンサー以外にはセンサーはないのだろうか?

私細胞は、元々は一つの細胞である。
その細胞が母体内で分化を続け独自の細胞に変化していく。
僕はこれを「進化」と考えている。
環境に対しての適応こそが進化の本質であるのだから、細胞レベル見た時にこの分化はまさに進化である。
私達の細胞は毎日刻々と変わる環境に対して適応し、変わっていく。
それを「老化」と呼ぶかなんと呼ぶかは別な問題である。


多くの進化を研究している連中は「目で見える身体の特徴的な変化」をもって進化と定義しているから見誤っている。
ドーキンスは生物はDNAを運ぶ乗り物であるといった。
もう少し先に行っても良いのではないか?


生命はマイクロバイオームの海に浮かぶ小舟であり、そこに乗り組んでいるクルーは互いを知らないが、コミュニケーションはとっている。
そして、コミュニケーションに従って、自分の姿を変えていっている。
私達の「老化」と呼んでいる現象は単に時が流れ、マイクロバイオームの交流がなくなって行ったためのタンパク質の枯渇である。

赤ん坊はマイクロバイオ−ムのやり取りがあり、様々な物質の交流がある。
大人は喜んで頬ずりをして、抱っこする。
母乳を飲ませ。ウンチを取り替える。

マイクロバイオ−ムにとっては最高の環境である。
おそらく、大人の身体の中にいるマイクロバイオームにとっても有効なんだろうなあ。
乳房に吸い付く子供の口内のマイクロバイオームと母の「乳首という開かれた人体の一部分」の間にどのようなやり取りがあるかの研究など誰かしているだろうか?


セックスも同様の効用がある。
ヒトとヒトだけではなく、あらゆる対象を考えていい。

ペットや家畜、庭木や池の鯉、老人の介護も同じ意味があるだろう。
そこにはマイクロバイオームの介在がある。

そしてすべてのものは、何かの意味があるのだ。

徐々に「汚い年寄り」になっていくと他のコロニーとの物質的な接触は少なくなり、やがて孤独の中に死ぬのである。


説明できない魅力あるものを「嗜好品」と僕は呼ぶ。
もう少し体系的に論じてみたい。

今年はそういう一年になる。


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ステロイドアトピーのかゆみを消す劇的な効果のある薬剤)は皮膚の表面から浸透して、身体に影響を与える。
「ホルモン」と呼ばれている細胞間のメッセージ物質は2通りある。

ステロイドというのは細胞膜をたやすく通り抜けてしまう。
それに対して、「インスリン」に代表されるメッセンジャーは細胞膜を通り抜けることが困難である。
当然、アミノ酸レベルまで分解されるので「そのもの」としては吸収出来ない。
そのために「飲み薬」はなくて「自己注射」して体内に入れる他ないのである。
しかし、これは重要なことである。

豚のインスリンは人にも効く。
もし豚の「膵臓」を食べて、食事経由でインスリンが意図せず体内に取り込まれたら大事である。
低血糖になって死んでしまう可能性がある。

これに気がついたのは糖尿病の勉強中だった。
インスリンが血糖値を下げる薬」だという単純な思い込みは災厄を呼ぶ。

細胞間のメッセージというのは恐ろしく緻密な連携を持ったネットワークを構成する一要素なのだ。



「動物・植物」という小舟には沢山のマイクロな生命が乗り組んでいる。
その小舟は他の小舟と寄り添いながら進む。

太陽は地表に大きな恵みを与えてくれる。
掃除に過酷な環境を作り出す。
生命という小舟は小船の外にいる限りない数のマイクロバイオームの海に浮かぶ。
そして、過酷な環境の中に進み、少しずつ世界を広げていく。





しかし、僅かに地球が身震いするだけで、小さな隕石のかけらが落ちてくるだけで、全てが0に戻る。
そしてまた長い道のりが始まるのである。

小船の残骸のように、生命の屍は新たな生命の躯となる。

そういう意味で僕は「ガイア仮説」自身には興味はない。
ガイア仮説を生み出す人のメンタリティには興味がある。

これも「擬人化が投影する神の姿」である。

僕の考えている「森羅万象に潜む神々」は全ての存在を統べる存在ではない。
理解できないものを理解するための「例え」でしかない。
その意味では、神様であり仏様であると言える。



コミックスを書いている宮粼駿は好きだ。ジブリは嫌い。(