遺言である 僕は胃瘻を望まない。何歳であっても、余計な延命も介護は必要ない。尊厳死の宣言。

間もなく90歳になる父は元気である。

毎日、隣り合っている実家からうちに来て食事をする。
作ってある夕食に1.5合の酒を飲んで、家に帰る。
夜半におきて、持ち帰った小皿のおかずをつまみに1合の酒を飲みながら眠る。

朝昼は僕が持っていくことも有るが夕食は必ず来て食べる。



とにかくタンパク質と脂質を十分に取ることを念頭に献立を考えて、食べてもらう。

僕より血糖値はいい(笑)。

何よりも、心が大事なので、食卓では一切の小言や注意はしない。

どんなに遅く来ても怒らないし、むやみに褒めたりもしない。
いくら年取って、ボケ始めていると思っても、空気を読む力は決して衰えない。
一緒に話をしながら食事をしていると、敏感に心が反応していることが分かる。

昨日は、仕事が一段落したので久しぶりに一緒に飲んだ(最近は僕は酒を飲んでいない:プロジェクトの一環であるが....)。

妻と話をしながら3人で食事をした。
母がいないことがやっと自然に感じられるようになった。
父も僕も妻も、傷は癒えつつある。





老人の食事がどうあるべきかという厚生省のガイドライン(実ははっきりしたものは打ち出されていない)は間違えていると思う。


いま、少し大掛かりなプロジェクトが始まりつつある。
2冊めの本と、介護施設の食事の指針に関するコンサルティングである。


僕が、年老いて、誰かのお世話になる時に間に合うかなあ(笑)?

この食事で明らかに父は元気である。

母がなくなった直後(2016/1)の状態と比べると格段に違う。
僕の食事もほぼ父と同じである。
僕がその歳になった時に元気だろうかという実験でもある。
そして同じ遺伝子の親とともに生きることの価値を確認している。

医師の世界からも行動を起こす人はいるが、もう少しである。

カロリーという概念から抜け出せないのは致命的である。
医学(マニュアル)は生命を取り扱えない。

おいしい病院食は、患者を救う

おいしい病院食は、患者を救う







介護施設に20年務めているご夫婦の方と知り合いである。
いとこのkさんは公的に運用されている介護施設で働いている。
彼らとときおり議論する。
彼らも問題を肌で感じている。しかし、変えることができない。

僕の友人で、父親を病院でなくした人がいる。
胃瘻が必要になったのだが、結局、しなかったそうだ。
人は様々である。
生きていてもらわなければ年金も入ってこない。
僕の年金は微々たるものだ。考えてみれば、幸いである(笑)。




遺言である。


ぼくには胃瘻も延命も必要ない。
もう随分前だが、母は、友人の死を看取り、体中に管をつけて生きさせられているのを悲しそうに語った。
無くなる直前に管を引きちぎったことをぼくに話した。
その時に、延命をしないでほしいと僕に話した。
父も同じ意見だったので3人で(当時見たことの有る雑誌の宣言文を使い)お互いの意思を確認した。
僕は胃瘻も延命措置にいれる。
無論、意識があるならば違うという考えもあるだろう。

父にも確認した。





直子さん、頼んだよ(笑)。
やっぱ君が最後だろうな。






forever youngが望みであるが、かなわないことが肝心である。





日経メディカルの記事

「親父は胃瘻を望んではいない」と思う
「胃瘻がある方が介護しやすいですよ」と医師

2017/6/20 郷堀 妙子(メッセンジャーナース)

 新しくできたばかりの介護施設で看護師兼相談業務をしていた時、私は看護師人生の中で忘れられない出来事と遭遇した。その施設は、他と比べて比較的医療依存度が高い人達が多いのが特徴だった。

 入院在院日数がオーバーしそうになると家庭の事情で在宅介護が難しい患者が、「入所者」となって介護施設に移られてきた。

 当時80歳代後半の男性Aさんは、経腸栄養剤(エンシュアリキッド)に増粘剤を加えて摂取できていた。だが、徐々に嚥下機能が低下し誤嚥性肺炎を発症した。医師から意思疎通が図れないAさんの代わりに、長男に胃瘻造設について説明が行われた。胃瘻のメリットとデメリット、胃瘻という手段をとることで生命維持できること、胃瘻があることで施設入所が可能なこと……。話を進めていくなかで、長男の表情が一瞬にして変わったのが分かった。医師は足早に診察を終えて病院へ帰って行った。

 医師の診察が終わり、私は長男に声をかけた。

「先生のお話をどのようにお感じになられましたか?」
「親父はそんなこと(胃瘻)は望んでいないと思う。親父は、腹に穴を開けて管から食事したいなんて思っていないと思う。この年になって 身体を傷つけるのはかわいそうだ」

 長男の怒りと葛藤の矛先が 私に向けられているのが分かった。「納得のいかない治療は受けて欲しくない。その一心で、私は主治医の元を訪ねた。

「Aさんの長男さんが、胃瘻造設について疑問を感じておられます。他の手段はないのでしょうか。もう一度お話しする時間を作って頂けないでしょうか?」
「時間を作ってもいいけど 何度話をしても変わらないと思うよ。だって家で介護できないんでしょ。施設に行くなら胃瘻があったほうが受け入れてくれるし」

 外来受診の日 再度、長男と主治医との面談が行われた。
 
「この年になって管をお腹に入れるなんて、本人にしっかりとした意思があればやらないと思う。他に手段はないのでしょうか」
「食事ができなければ、点滴をしなければいけません。入院するにしても何の治療もしないのに、ずっと入院しておくことは難しい。特別に長期入院というのも難しいのです。在宅介護はどうですか? 在宅介護をするにしても、胃瘻がある方が介護しやすいですよ。まずは胃瘻ができるかどうか検査したいのですが、よろしいですか?」

 医師の答えに 長男は為す術がない様子だった。

 どうしようもない状態に、私は誰かの救いが欲しかった。納得のいく治療をしていただきたいのに、何か不完全燃焼。とても後味が悪い。そして病院師長の元を訪ねる。

 私は、師長に今までの経緯を話した。

「胃瘻を拒否されているのね。でもね 今の医学では(胃瘻は)当たり前のことよね。私の両親が同じ状況になったら 先生にお願いすると思う」

 医学の当たり前って何、医学が中心の治療なの? 私はどうすることもできず落胆した。

 胃瘻造設をめぐり、Aさん家族は話し合った。看護師である県外にいる娘達も集まり、治療の方向性を話し合った。その答えは胃瘻を造設することだった。

 胃瘻造設を終え、Aさんは施設に戻って来られた。面会に来られる長男の表情からは、父が望んでいるであろうことを実行できなかった申し訳なさや、親父らしさが消えた姿に寂しさを感じているのが分かった。

 かつて、延命治療に関して医師に聞いたことがある。

 医師の答えはこうだった。

「医師になる教育の学びは治療をすることだ。看取りのように、見守る治療は職務を放棄したような気がして、罪悪感にとらわれるんだ」

 医師は、医師としてベストを尽くしているのだ。

 医療現場の現状を踏まえ、日本老年医学会は人工栄養などの延命処置を高齢者の治療に用いる際のガイドラインを公表、近年は胃瘻を造設する患者が少しずつ減っているとの報告もある。しかし反対に、経鼻栄養をしている患者は増えているという病院もある。

 今は食事が食べられなくなった時の対応は、私が勤務する病院ではほとんどが家族に聞いているのが現状である。治療の選択は、本人の意思によるのが望ましいと思う。今の団塊の世代の方達が高齢者となり介護が必要になったとき、胃瘻の選択という課題は変化しているかもしれない。でも、衰退していく身体を予測して、治療の方向性を家族で話し合っておくのも大切だと感じる。

 これから超高齢化社会となり、病院のお世話になる方も増えてくる。病気があっても、年を重ねて衰退していく身体であっても、それぞれの価値観、人生観、死生観に応じた治療の選択ができる世の中であって欲しいと切に願う。


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もう母のこれは必要ない。

眠りながら逝った母は幸せだったと思えるようになってきた。