東京出張・次の本のこと 国体のお仕事

2015年4月がすべての始まりだった。
眼底網膜症の宣告と生活を変えて病と生きることを決意した。
その後の事は「幸運な病」に詳しい。
母は精神安定剤の中毒、僕は糖尿病と向き合い、なんのために生きるのかということを問い直した半年だった。

2016年1月に母が亡くなり、道を見失い、生きる意味が見えなくなった。
2月に大きな出会いがあり、本を書くことを思い立ち、下書きを重ね、2016年6月(丁度一年前の)国体の打ち合わせの時に出版会社の編集者と会う。




その日のことだった。
ふと入った新宿の喫茶店で、レジで勘定した時にママと話をした。
息子さんお店の経営者であること太っていること、毎日叱っていることを「喫茶店のママ」は嘆く。

僕は自分の体験を重ね合わせた。
僕の東京時代、いつも米や真空パックの焼豚とかハムとか送ってきたものだ。そこには「これは毒!」と書かれていた。


そうなんだ、母の心配と、ちゃんと食べているかという心は痛いほど分かる。
家族は心配する。

心配するというのは、相手を半人前だと思ってしまうことなんだ。自分は優秀だと思う弱い心が「心配」を生む。
親から見たらいつまでも子供は子供なんだ。
離れることも出来ず、叱ることで家族は引き裂かれていく。



そこで暫く、話をした。
僕は炭水化物を食べないことで肥満を解消できていた。
あの頃の僕と母を助けたかったんだと感じた。
「幸運な病」の方向性が決まっていった。







そして本は、今年の4月に出版された。
どうしても「喫茶店のママ」にお礼を言いたかった。
そして、次の本は僕の2年間の「生活との格闘」のドキュメントである。
本と去年のように次の本のシノプス(下書き)を持っていった。
小一時間ほど話をして、「喫茶店のママ」は喜んでくれた。

「だから、どうしたら良いの?」という問いかけに答える本なんだ。
彼女の心にどう写っただろうか?

自分が変わることは難しい。しかし、自分が変わらなければ世界も変わらない。



誰かに何かを伝えることはできるだろうか。













昼すぎから出版社の社長と会った。
本ができて以来である。
新宿ライオンでビールを飲んだ。






歌舞伎町の喫茶店、すげえ。


時間があったので、新大久保まで歩いて途中で新宿コリアンタウンを堪能した。






10年以上の付き合いになる友人の新大久保にある家に行ってワインをごちそうになって、久しぶりに一緒に飲んだ。
思えば不思議な縁の方である。






気がついたら、新潟に帰っていた。
くだりのエレベータで転倒して、たんこぶが出来た。
エレベータは凶器だ!
酒もな!




新発田行きのつもりで飛び乗った電車が長岡行きで、次の駅で降りたがもう戻れなかった。
迎えに来てくれた妻には呆れられたが、2014年のトラ箱事件ほどではなかった。
きっと当たっている宝くじを新幹線の中に忘れた。
アイマスクを新幹線の中に忘れた。



コリアンタウンで買ったキムチを食べた。
やっぱうまいものだ。

父に会津塗のご飯茶碗を買った。
少し時間があったので、Tシャツを探して歩いたのだが、迷って百貨店での展示販売のコーナーに入ってしまった。
年に一回、一週間東京に来る工房(鈴武)の先生だった。



父の蓋付きのご飯茶碗を割ってしまったので、漆塗りのものはないかと思っていたのだ。




『盲亀浮木』という言葉を思い出す。
しかし、人として生きるということ自身がありえない確率の一つである。





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