写経な日々

まだ写経は続いているのである。

何とか(抜かしたり、違う場所に入ったりはするが)、暗唱して、なにも見ないで描ける様になった。
納骨に間に合ったのである(笑)。

暗記の過程でその一行になにが込められているか、それに連想する自分の人生、様々なことを考える。
暗記したら、「その一節にどんな意味があるか」考えて、反芻する。

写経は水泳に似ている、泳いでいる時は泳いでいることしか頭にない。
悩みや、苦しみは『置いて』おけるのである。

筆を進めている時は「次の言葉を引っ張り出す」ことしか頭にないのである。

当然「意」を考えながら引っ張ることになる。
面白い。



般若心経の認識論、もしくは唯我論の空虚を出発点とした絶望への道先に見える光

菩薩様が森羅万象に思索を巡らしている時に私たちを縛る5つの概念には何ら根拠がないことに閃いた。
1)色:客観的世界
2)受:感覚器官が受け取る刺激
3)想:感覚器官が受け取った刺激を認識する(意味付けする)
4)行:客観的世界に対しての働きかけを行う
5)織:2-4までの経験を知識として積み重ねてー>世界と未来を予測する
しかし、そもそも「色:客観世界」が他者に取っても存在するものかということは何ら根拠がない。


何ら根拠がないのだから、「生まれること-滅すること」「汚れていること-浄であること」「増えること-減ること」などないのである。
客観的な世界も、感覚器官も(客観的な存在としては)、五感も、存在の根拠は無いのである。

だから、未来の見えない苦しみもない(はずなのだが)苦しみが尽きることはない。
老いることや死はない(はずなのだが)実際には老いて死んでいく。

その未来の見えなさや苦しみこそが「私たちが存在する根拠」なのだ。実にカラマーゾフ的である。


諦めることで菩薩様は心のこだわりをなくすることができた。
そして、あらゆる恐怖から自由になったのである。
すべての悟りを開いた仏は、皆こうして(諦めることで)心の平安を得たのである。


この祈りを捧げることで悟の境地が開け苦悩カラっ自由になるのです。
本当だよ、嘘じゃ無いよ。
さあ唱えましょう。







このお経の中身よりも、こういう考え方を根つかしている私たちの精神風土の方が面白い。

頭の中が真っ白になる30分が有ることが人生に何の意味があるのかこれから見つけたい。




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