『違っていて理解できない他人』 (1) 「病気(治療によって治る)」か「異常(犯罪)」と考える生き物。

人は他人を理解できないと「病気(治療によって治る)」か「異常(犯罪)」と考える。
ただ違っているだけなのだと何故考えることが出来ないのだろうか?

「行動や判断の基準が異なったヒト」と、ともに生きることは難しい。
共通のプロトコルを持たない場合は同じヒトとして判断されない。

プロトコル:(外部からの)メッセージに対して起こす反応の手順と見える。しかし、その一つ一つは

アリストテレスとアメリカ・インディアン (1974年) (岩波新書)

アリストテレスとアメリカ・インディアン (1974年) (岩波新書)

大学の頃この本を読んだ。
新大陸を侵略したスペイン人達は、自分たちと全く違う言語・習俗を持った人達と出会った。
この人たちは、「自分たちと同じヒト」なのか、「姿形は同じでも全く異なった生き物なのか」真剣に議論した。
結局、同じ神を信じることが出来ないこの生き物は殺しても問題ないと判断したのだ。
歴史は繰り返しこの「主題」を奏じている。
つまり私達はそういう生き物なのだ。糾弾しても仕方がない。回避する方法を考え、多くの人が幸せになる道を探すべきだ。




肌の色が違っている、使う言葉が違う、DNAゲノムが違う、様々な理由で自分たちと違うと判断して異なるコミュニティに押し入れようとする。
奴隷にしてた所で、皆殺しにした所で、生物学的に劣っている生き物だからそれで良いのだ。

もし殺さなければ繁殖して「純血を保つ私達」が危ない。
外来種は皆殺しにしても良いのだ。

いまだにLGBTQは撲滅対象である国や地域は多い。

現在の医学は「検査値」を科学的根拠として、病人のレッテルを貼り隔離しようとする。

年取って検査値が正常値に入らなくなってくると、薬や手術をさせて、治そうとする。
拒否したら、それは精神異常であり犯罪である。

昨今の「精神病理学」では行動も、類型化して検査値に落とし込む。恐ろしいものである。







僕は父を施設に入れて認知症の治療をしろと、カエルとネズミに言われた。
あの生き物たちから見たら、僕の父との生活は「父に認知症の治療をさせない」という犯罪なのだろう。

確かに、父を施設に入れるには、父の名義の土地をネズミに売らねばならない。
カエルは父の遺産は自分のものだと思っている。施設に入れれば父の年金をかすめ取ることも出来る。

そのために、僕を精神異常だと妻に吹き込んで診察を受けさせようとした。
父を拉致誘拐しようともした。考えるだけで腹が立つ。
世の中、いつも金絡みである。

中世の「魔女狩り」を思い出してもらいたい。様々な検査を行い、「魔女と認定され、焼き殺された人」の財産は協会が没収していた。やっぱ、世界を動かすのは経済だ









先日もネズミを追い回す夢を見た。
妻に起こされて、ここしばらくの酒の量の多かった理由がわかった。

妻は僕が狂っているとは思っていない(はずだ.....よね)。
荒れ狂う僕が、夢の中に収まっているのは、「父と妻、子どもたち」、そして「亡くなった母との約束」のおかげだ。




2015年、僕は医師に糖尿病で失明の危機を宣告され、治療するように言われた。
糖尿病を学び、ヒトの身体と心を学び、社会を学んだ。
多くの問題を統一的に説明する仮説を考えている。

この苦しみに向き合い、乗り越えようとしている。
僕は、母が必死に努力して人生に向き合った姿を尊敬している。
そして年老いていく苦しみから母は、医者に依存してひどい目にあった。
しかし、無くなる直前には穏やかな日々を送っていた。
僕は母と最後に過ごした数ヶ月を忘れない。





身体は衰え、やがて検査値は異常になる。
当たり前の姿だ。
施設に入れざるを得ない事情もあるだろう、僕だってそうなったらそうする。
しかし、それはまだ先だ。
父が自分であり続けられる食事を僕は作る。




「幸運な病のレシピ」とは自分として生きていける食事を作り続ける努力だ。
そしてその食事は、家族みんなにも自分として生きていく勇気を与える。
果てしなく大変だが、食事にはそれだけの価値がある。






家族はもう戻れない状態になっても共に生きる。そんな経験から「幸運な病」を書いた。
僕の膵臓は既にインスリンを発することが出来ない。しかし、食事をともにすることは出来る。そして僕の作る食事は、父や妻にとってもなにかの意味がある(子供には物足りないかな)。



母は、幾度も僕に父を頼むと言った。
僕は父と共に生きる。


父がなくなったら、この人生の落とし前はつける。


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