青汁実験始めました。糖尿病専門医(内科医)に失望した。

少し前に、青汁を買った。

お試しセットだったのだが、半分くらい飲んで、そのままにしていた。

どういう効果を与えるのか、血糖値を測りながらためしてみることにした。

そんなことを考えたのも、今日、「糖尿病の専門の内科」で診察受けて、あまりにお粗末な内容で、呆れ返ったからである。

新潟で糖質制限に理解がある漢方系の医院だというWEBでの紹介で行ってみたのである。

糖質制限はスーパーですか」と聞かれたが、それだけである。

僕の計測しているデータを見てもらおうと思い、見せたのに、まともに見ることもない。


こちらの方も見ないで、パソコンに何やら打ち込んでいる。
何を食べているのかとか、運動はするかとか聞かれるが、YESかNO、パソコンに打ち込める箇条書きでの応えを要求される。

来週から出張だということを話とすると「そんなことはどうでもいい」と言われる。
患者の生活が、ストレスを与えているかということは重要な要素だと思うのだがなあ。


江部先生の本で勉強したのかと聞かれたので、「バーンスタイン博士の本だ」と答えたら、知らなかった(少し後で、知っていつ様な素振りだったが)。


漢方系の何か薬で、早朝血糖が高くなるのを抑える方法や、自分の今の生活の中でどうしたら変わっていけるのか聞きたかったのだが、『そんな薬はない』と一言である。


まあ、確かに、生活を変えてより良い方向に持って行きたいと思っている患者にアドバイスンなど出来ないよなあ。
血糖値測って、その数字でくすりを売るというのは、医師本来の姿ではないはずである。


その場で測ったA1cが6.9だった。

血糖値のパターンは「境界線型」ですよね。と話したら、「あなたは糖尿病ですよ」と言う一言である。
僕は血糖値の範囲が180mg/dlいかに入っているということを言ったのだが.............。
ご飯やパスタやうどん食えばあっという間に300mg/dl超えることは知っている。


その医師の脳みそには、エンパワーメントなどという言葉は一切存在しないのである。





恐怖を与え、自分の権威を強化して患者をコントロールする。
医師や教師、役人、政治家、無条件に権威が有ると思われる存在がいうことが正しかった時代のものである。
相当古いビジネスモデルである。
哀れさを感じる。

この医師には、眼科いって手術してこいと3回言われた。
目に来ると(目が潰れるぞ)何度か言われた。

眼科でも内科行って診察受けろと言われたが、内科と眼科は仲がいいようである。

確かにそうかもしれない、しかし、そうなったら死ぬつもりである。
命がけの挑戦なのである。
確かに恐ろしいが、眼科で診断された時に決めた頃である。



『恐怖で人をコントロールする』ビジネスモデルが有効だったコミュニティのモデルを考えてみたい。





大事なことは、どんな生活をして、血糖値のレンジを低く抑えるかなのであり、その結果『死ぬまで元気』で生きれるかである。


『頑張って、生活を変えられましたね』と褒めることもなかった(まあ、褒められたくもないが)。

ウザい患者だと思われたのだろうなあ。

しかし、あの冷淡さは、マゾヒスティックな患者には快感かもしれない(笑)。


来月の末に来いと言われたが、何しに来いというのだろうか?
思わず吹き出しそうになった。


受付の人は素敵だった。



確かに、『患者が皆自己血糖測定で血糖値落とせること』を知ったら、あんな一等地に医院を開くことは出来ないだろうからなあ。


医者という仕事は憂鬱である。



数年前に学校の問題を考えたのだが、問題は教師に有るということが分かった。
教師は、自分を専門家でスペシャリストであると考えがちである。
しかし、『人』と接する職業では、決してスペシャリストなどありえないのである。

スペシャリストというのは、テストでで測る(採点する)こと出来、基準以上の存在に与えられる物である。
まさに銀行型学習の適用である。


僕はプログラマなのだが、「ソースコードを書く」と言う側面では専門家といえるかもしれない。
しかし、ソフト作りで一番大事なのは、使う人の心を理解することである。
その点においては、スペシャリストなどいない。
お客様の経験以上にその業界を知ることなどないのである。

ともに生きて共に伸びていこうという決心以外の解決はないのである。

なんか汎用あパッケージと作りこみのソフトの差のようである。
確かに、自分よりうまくプログラム作れる客がいたら恐怖である。

自分の存在を脅かすのであるから。




医師も同じである。






医学は、個人の病に対する苦悩とその取組を演繹して、一般的な公式を見つけ出す。
それ効果があるということが分かった時に臨床として適用する。

しかし、臨床においては、その一般的な公式が適用可能かどうかを見ぬかねばならないのである。
検査値で、処方薬を決めて、経過を見て、より高い収入の得られる方向に向かう。
そんな現在の医療制度は間違えている。







僕の小さいころは近所に内科のお医者さんがいて、町内の誰のことも知っていた。
小さな医院で、看護婦は奥さんで、決してお金持ちでは無かった。
彼は、薬を売るのではなく、コミュニティの皆と共に生きていたのである。

学校の先生も、そうだった。
遠くから通うことが出来なかったから、地域に家があって、共に生きていた。




やはり、医療と教育、そして食は「グローバリズム」に向いていない。











民間療法と言われて、医学会からは馬鹿にされるが、ぼくは医学の方こそ学ぶべきだと思う。
民間療法では医師と患者は共に生きようとしているのである。
無論ひどい連中もいるが....................

医学は治療から、いかに金を儲けるかということが重要なのである。


民間療法と医学の差というのは、本質的にはないのだ。



権威を付けて高値で売られるのが『医学』である。

民間療法と名付けれれ、馬鹿にされ、排除される様々な試みは決してそんな扱いを受けるべきものではない。

考えてみれば、「ペニシリン」だって、インデアンが傷に青カビを塗っていた民間療法ではなかったか?


なので,青汁実験を始めることにした。
効果がないと困るし、僕に効果があっても他の人にはないかもしれないので、商品名は出さない。
大事なことは、自分の体で取り組むことである。

「糖尿病の解決」に限らないで、あらゆる問題の解決は自分自身でしか出来ないのである。
やはりアドラーは偉大である。



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