CMから認知症を考える。
10年位前前のことである。
親父の実家のガレージを改装して僕は事務所を作り、仕事をしていた。
奥にはおばあちゃんがいて、夜中事務所に出てくるのである。
昔の話をして、僕が仕事をしている間後ろに座っていた。
そのうち、家に帰ると言ってきかなかったり、近所の家の人の家に行ったりするようになる。
すでに、亡くなったが、色々と考えさせられた。
最近、テレビで製薬会社のCMを見た。
認知症を薬で治る病だと主張するものである。
確かに、そのとおりかもしれない。薬で治る病もあるだろう。
しかし、僕はそうは思わない。
多くの病は人と人とのつながりの中で回復すると僕は考えてきる
また、認知症という言葉で新しい病を作ろうとしている製薬会社や医者業界の立場もわかる。
しかし、人の幸せはそこにはないのである。
年取った時に、物忘れをするとか、同じ話を繰り返すとか、いうが、それは僕でも起こることである。
老化は病ではない。
時に家にいるのに、「家」に帰りたいと老人は言う。
自分が、ヒトの役に立っていないと感じる時に『自分が役に立っていた頃の家』に還りたいと感じる。
決して、ここが家でないと言いたいのではないのだ。
自分が、意味を持っていたあの頃に還りたいと思っているのである。
大事なことは、家族の接し方で、老人に家を取り戻すことが出来るのである。
母は尋常小学校しか出ていない。
何度も、若いころ、同年代の女子学校に行っている人に負けないように人生を生きた事を話す。
編み物の先生の資格を取り、多くの生徒に教えた。
着物の先生について、沢山の帯や着物を仕立てた。
必死に生きて、僕を育ててくれた。何度も繰り返し語る。きっと僕を勇気付けたいと思って語るのだ。
その心を考えると涙が出てくる。
僕は彼女を認知症だとは思わない。
彼女の目に映る僕の姿が、自分の若いころの姿に重なるのだろう、勇気を出して、人生に直面しろと語っているのである。
どうしてそんな心を持った母を認知症などという言葉で病人扱いできるだろうか。
僕も、子供達に何度も同じ話をする。
これは認知症なのだろうか?
webを徘徊していたら、銀のさらのCMを見た。
なんとも涙が出てきてしまった。
今、社会(家族)の中で老人をどう位置つけていくか分からなくなっている。
社会が直面している状況に対して適切な解決方法が見えなくなっているのである。
ここ数日、阿賀野高校生の自殺に関して考えていた。
教師は家庭で扱われてきた経験からコミュニティのコントロールの方法を学ぶ。
クラスの運営においてその経験が使われる。家庭と言うコミュニティの価値観はどのようにして生まれるのか考えている。
なんかつながっている。
今日は銀のさらの寿司食うか!
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