「昼食後、90歳のt父が認知症の定義を話したこと」には驚いた。

いつものように父が家に来て、市の広報誌を見ていた。
どうやら認知症の話題が載っていたようだ。

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認知症っていうのは夫婦の関係に出てくるんだろうなあ」
=>「え、そんな事書いてあるの」
「いや書いていないけど、そう思う」
「夫婦の事が分からなくなるのが認知症だろうと俺は思う」
=>「そうなんだ、お父さんは(しっかりしているから)成らないね」
「俺は(妻が亡くなったから)成ろうにも成る相手がいない」

妻のことを忘れなければ認知症にはならないんだね。
人生を忘れないでいれることは幸せだ。

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ちょっと驚いた。
関係性を認識できなくなることこそが「認知症」の問題である。
人は関係性の中に生きる。
そして老人となり、若い頃の威厳や記憶が失われた時、全く異なった関係性の中に生きなければならない。
しかし、私達は「家族というシェルター」を失ってしまった。
その装置は関係性を記述している。

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家族という関係性(年寄と暮らすということ)は、自分が年老いた時にどう振る舞えばいいのか、子供はどう振る舞うべきかを記述スたテキストであったのだ。
しかし、それはもう取り返しのつかないところまで破壊された。
悲しむべきことではない。
そうなったという事を学ぶだけである。
新しいシェルターを作って行く他ないのだ。
そして、役人の設計したモノ(介護施設)は建物は立派だが、多くのひとを不幸にしている。(介護する側もされる側も不幸である。)


どこに答えがあるのだろうか。
僕が父の歳になるまでに見つかるところにあるだろうか?


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