良い先生、もっと良い先生(1)

小さい頃いじめられていたからどうやら僕は先生になりたかった。
大学では教職課程をとって、教員免許を持っている。

キャノンの子会社に入った時も、講習会のテキストを作る仕事をした。
講習会の講師になって、講習会もかなり行った。

地元で起業してからは何でも仕事をしたから講習会も多く行った。
県庁での職員に対しての講習会したり、企業にパソコン導入の講習をしたりした。

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最初の頃は、教える事は技術として確立出来ると思っていた。
確かに、マニュアル化する事で、喋り方や内容、受講者への対応などは確立することができる。

それは最低限の事だからやらなければならないのだ。

しかしながら、それだけでは駄目なのである。

誰にでも出来る、有る一定以上の水準の講習を組み立てることはできる。
だが、それ以上の講師になりたいと思っていた。

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転換点は、平野屋(v1)の始まりの頃から5年間続けた高校のパソコンクラブの講師である。
高校に行って、パソコンクラブに集って子どもたちを相手に毎週 『2時間×2回』である。

実業系の高校だったので受講者の半数は就職だった。

パソコンクラブの授業だから適当に課題を出してみていれば良いと言う事で引き受けたのである。
前任者からの引き継ぎで「名刺作り」「ワープロの使い方」「ペイントソフトで絵を書く」と言う様な事を行うのである。

子どもたちと打ち解けて行くうちに、授業の空虚さに辛くなって来た。
彼らは今後の人生でこの技術を使う事はないのである。
もっと重要な事を教えられないかと思い始めた。


自分の人生を振り返ると、彼らに伝えたいことが沢山見えて来た。
そして伝えることにした。
彼らに、自分が何になりたいのかのアンケートをとった。色々な答えが返って来た。
一人一人と話し合って、そうなる為にはどうしたら良いか話し合った。
そして授業の内容(一人一人のテーマ)を決めて行った。


今でも子どもの顔を思い出す。

いくら話しかけても僕に言葉を返してくれない子どもがいた。
先生に言葉を返すのができないような心の壁が有ったのだろう。
ちゃんと話は聞くし、やる事はやるのだが、精々で「はい」と言う言葉しか出せないのだ。
その子が、最後の授業が終わり変える時に「タッチタイピングとか色々な事を教えてもらえてありがとうございました」と話しかけてくれた。
多分彼にとっては大変な勇気がいる事だったろう。
僕は涙が出て来た。


皆どうしているかなあ。






免許は有るけど、教育委員会は僕を教師として雇ってくれなかった。
今では感謝しているが........


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