「COVERS」(5)親子鍋で木の葉丼

フェースブックにはカバー写真を設定することが出来る。皆それぞれに気に入った写真をアップロードしてコメントを書く。僕は厨房仕事に欠かせない道具をカバーすることにした。COVERSというのは僕の大好きな音楽家のCDだ。有名な曲の「替え歌」が演奏されている。料理のレシピというのは大昔から家庭でそれぞれに奏でられている音楽のように思う。誰かに習い、毎日奏でる。皆同じ様に見えながら二つとして同じものはない。私達一人一人が違うように。「商品化された食事」は自分らしさを殺す。自分らしく生きるために僕は今日も道具たちと厨房に立ち、料理を作る。このシリーズはこちら


いしいひさいち先生を僕は尊敬している(笑)。
18歳で東京に住み始めた頃バイト君と言う4コマ漫画を愛読した。
貧乏な5流大学の学生を描いていた、「木の葉丼」という名前を知ったのはバイト君の主食だったからだ。
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丼いっぱいのご飯に玉ねぎと竹輪を出汁醤油で煮て卵で閉じるのだ。
自炊を始めた頃の話だった。早速、親子鍋(写真)を私鉄高架線下のスーパーで見つけ買った。
母がいつも米を送ってくれていたので毎日炊飯器で炊いて料理をしていた。
ご飯はコスト安く満腹に到着できる。ときに豪勢に肉を買ってきて玉ねぎと合せて煮て卵で閉じた。
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大学に入ってから、今ならばADHDと呼ばれただろう(3人の暴れん坊)中学生の塾の講師をした。

マニュアルに書いてある対応では心の旺盛な子供は満足してくれなかった。
思いもよらない言葉を発する子供に己のダメさ加減を思い知らされたものだ。
(給料日の)帰宅の道すがらの蕎麦屋さんでカツ丼を食べた事を思い出す。そこのカツ丼はまさに神業だった。
何度もあの味をと思い作ってみるが近寄れもしない。時折(カツ丼の美味しそうな)お店に入った時は、頼んでみるが違う。


できの悪い僕に講師の仕事は続かなかった(その子達が卒業したあとはお呼びがかからなかった)。
今でもあの子達は何をしているか思いを馳せる。そしてもう行くこともなくなったあのお店のことも思い出す。

卒業後、最初の会社の近くを探し、都心で下宿した。半年でクビになった後で極貧で暮らしていた(まさにバイト君であった)。

4畳半の風呂なしの下宿は隣が大家さんの物置だった。時折、玉ねぎをお借りして「木の葉抜きの木の葉丼=玉ねぎの卵とじ」を食べた。
心配した父母が米を送ってくれていたのでひもじい思いはしないで済んだ。
風呂屋も行けないで流しで体を拭いた。家賃は3万円、一番長い時期で3ヶ月は仕事がなかったなあ。
コンビニで情報誌を買う金もなく電話番号を暗記して面接行った。最初に切り詰めるのは食費だ。よくがんばれた(笑)。
その後、不動産屋さんからソフト会社という「真っ黒クロスケなブラック企業」に務め東京生活の後半戦に入った。
 

今では、丼はご飯抜きで食べることがほとんどだけど、時折懐かしく使う。

機会あれば、あのときの玉ねぎをお返ししたい。

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