敗戦と記憶、謝罪と許し

泣けた。

父は予科練帰りである。
幾度も繰り返して聞いたその体験は、僕の心にも刻まれている。
年をとるということは、苦しみから開放されることなのだろうかと思う。

ニューズウイークのとんでも科学ネタも楽しいのだが、こういう視点は素晴らしい。


戦後は克服されないと思う。
傷ついた記憶は消えることはない。
自分が変わることで、新しい生を生きる。
それを癒やしと呼ぶ。



ニューズウイークの記事より
元米兵捕虜が教えてくれた、謝罪と許しの意味

2018年8月15日(水)19時30分 小暮聡子(本誌記者)

<元捕虜収容所長を祖父に持つ本誌記者が、日本軍の捕虜だったアメリカ兵と向き合った>

<本誌2015年8月11&18日号「特集:『戦後』の克服」より転載>

8月15日、日本は戦後70周年を迎える。日本が語る「国家」としての歴史が議論される一方で、第二次大戦には当時を生きた一人一人の物語がある。それはそれぞれの国で、体験者それぞれの「真実」として、多くの場合苦しみを伴いながら今後も語られていく。その戦争の記憶に「終止符」を打てる日は来るのだろうか──。

捕虜たちが見た地獄
6月初め、私は祖父が残した物語といま一度向き合うため、赴任先のニューヨークから米南部のニューオーリンズ空港に降り立った。ジャズの街ニューオーリンズは既に夏真っ盛りで、空港を出るとむわっという熱気が身を包む。車で30分も走れば音楽と酒にまみれた繁華街フレンチクオーターに到着するが、私を乗せたタクシーが向かう先は陽気な観光地ではない。

旅の目的は、戦時中にフィリピンのバターン半島コレヒドール島で日本軍の捕虜となったアメリカの元兵士や民間人、その家族や遺族が集う戦友会に参加すること。この「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会(ADBC)」年次総会では、1つのホテルに集った参加者が数日間にわたり戦中・戦後の体験を共有し、次世代に語り継ぐ。私がこの戦友会に参加するのは22歳だった03年以来、12年ぶりだ。

日本軍に捕らわれた捕虜たちにとって、捕虜生活は「生きるか死ぬか」の戦いそのものだった。1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入すると、本間雅晴中将率いる日本軍はダグラス・マッカーサー米極東陸軍司令官下のフィリピンに侵攻を開始。首都マニラからマニラ湾を挟んで対岸に位置するバターン半島コレヒドール島の米軍とフィリピン軍は、日本軍との戦闘を経て42年4月以降相次いで降伏、捕虜となった。

その後、日本軍が7万人余りの捕虜を約10キロ先の収容所まで炎天下のなか飢餓状態で歩かせ、約3万人の死者を出した「バターン死の行進」は、アメリカでは今も旧日本軍の残虐性の象徴とされている。日本の市民団体「POW(戦争捕虜)研究会」によれば、第二次大戦中、日本軍がフィリピンなどアジア・太平洋地域で捕らえた連合軍の捕虜は約14万人。そのうち約3万6000人は水や食糧、衛生設備が欠如した輸送船、いわゆる「地獄船」で日本に送られた。

航海中は連合軍からの攻撃も加わって多くが命を落としたが、生き延びて日本に到着した捕虜たちは全国約130カ所の捕虜収容所に連行され、炭鉱や鉱山、造船所や工場などで働かされた。戦争末期にかけて日本側も疲弊するなか、捕虜たちの生活は過酷を極め、終戦までに約3500人が死亡したという。死因は飢えや病、事故や虐待、連合軍による爆撃などだった。

ADBCのメンバーは、こうした悲惨な捕虜生活を生き抜いた人とその家族、または捕虜のまま亡くなった人の遺族たちだ。元捕虜の年齢が90歳を超え、組織の主体はその子供たちの世代に代替わりしているが、子世代もまた親の苦しみを受け継いでいる。元捕虜の多くが帰還後も心的外傷後ストレス障害PTSD)に悩まされ、捕虜体験に口を閉ざす一方で、父親を理解しようと調べるうちに日本に対して憎悪を抱く子世代も多いという。

そんな戦友会で受付登録を済ませた私は、03年にこの会に参加して以来、元捕虜やその家族と面会するたび幾度となく経験してきた「居心地の悪さ」を感じた。もちろんここは、見知らぬ日本人がハグとキスで歓迎されるような場所ではない。だがそれ以上に、私には参加者を遠ざける肩書があった。私は、「元捕虜収容所長の孫」。そして祖父は戦後、「戦争犯罪人」として裁かれた人物だったからだ。


波乱含みで始まった取材
参加1日目、体験談を聞くセミナーが続き、元捕虜のうち1人と翌日に個別にインタビューする約束を取り付けた。自己紹介の際には「記者」を名乗った。元収容所長の孫だと言えば、相手を怒らせるか、傷つけかねない。何より、先入観なく本音を語ってほしかった。だが結局、この取材は思わぬ方向に走りだすことになる。

元捕虜ダレル・スターク(92)のインタビュー当日、約束の時間の少し前にホテルのロビーに行くと、別の元捕虜の娘で、知り会って2年になるパム・エスリンガーが男性と談笑していた。エスリンガーは、私の祖父が元収容所長であることをこの会場で知る数少ない1人だ。そこに、スタークと娘のジュディ・ギルバートが現れた。

エスリンガーはスターク親子と知り合いらしく、2年前に私がオクラホマ州に彼女の父親を訪ねたこと、今年秋には日本に行って私の両親に会うことをうれしそうに話す。スタークの娘が私たちの関係を尋ねると、エスリンガーは少し戸惑い、間を空けた後こう言った。「彼女のおじいさんは、父がいた収容所の所長だったの」

エスリンガーの父親ジャック・ウォーナー(93)は、祖父が管理していた収容所にいた捕虜の1人だった。2年半前にニューヨーク支局に赴任した私は、知人を通してその存在を知っていたウォーナーに連絡を取り、翌年に彼の自宅を訪ねた。ウォーナーには祖父や日本への憎しみや敵意はまったく見られず、私は彼の4世代にわたる大家族から思いもかけないもてなしで迎えられ、その後も交流が続いている。

だがスターク親子はそれを知らない。その後の数分間は、これまで何度も見てきた光景と同じだった。祖父の話を切り出された相手は一様に、表情をこわばらせたまま固まる。驚いた様子のスタークの娘は、耳が悪くて聞き取れなかった父親にエスリンガーの言葉を繰り返す。すると、今度はスタークが目を大きく見開いてこちらを見た。エスリンガーがすかさず「父は、彼女のおじいさんは良い所長だったと言っている」と言うと、父娘の表情はいくらか和らいだ。そしてスタークは「君には、すべてを話す。私が知っているすべてを話す」と、怖い顔をして立ち上がった。私は自分の心も、みるみるうちに固まっていくのを感じていた

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